2016年11月30日水曜日

244

この会合は、とんだ騒ぎになり、怒って帰ってしまったり、参加しないと言う人も出現した予想以上にめちゃくちゃな会合となってしまったわけですが、昼食会には「それでも、みんなで向った。」とのこと。

「みんな」とは「ミウーソフ」と「イワン」と「カルガーノフ」と案内の修道僧です。

修道僧は道々、「ミウーソフ」と「イワン」のする内輪話を黙ってきいていました。

もっともこのふたりとも修道僧が近くにいて聞こえることがわかっていながら無神経に会話しているだけですが。

林をぬけてゆく途中、たった一度、修道僧が言いました。

それは、もうだいぶ前から修道院長がお待ちかねで、三十分以上も遅れているということでした。

修道僧も二人が自分たちの保身のための言い訳のことばかり考えていて、ずっと待っている修道院長たちのことを何も思いやることもしないので忠告の意味をこめて言ったのでしょう。

それでも、ふたりは返事をしませんでした。

ふたりとも自分のことしか考えてなくて、修道院長もこの修道僧のことも無視しているのですね。

「ミウーソフ」は憎しみをこめて「イワン」を眺めやりました。

そして、『まるで何事もなかったような顔で、食事に行くんだからな!』と彼は思いました。

『よほど鈍いし、カラマーゾフ的良心てやつだな』

「ミウーソフ」が「イワン」のことをこのように思っていることは驚きました。

同じカラマーゾフの一族でも「イワン」は「フョードル」と全く性格が違っており、「ミウーソフ」は以前に何度か「イワン」と話もしており、ある程度は親近感があるように想像していましたが、ここでは「カラマーゾフ的良心」と言う言葉で一族を同類視しています。


ここで「カラマーゾフ的」というのは、カラマーゾフの一族、「フョードル」と「ドミートリイ」と「イワン」と「アリョーシャ」の四人ですが、この四人に共通する負の面での特徴のことで、これは、いろいろな要素があると思いますが、「ミウーソフ」の言うこの「カラマーゾフ的良心」というのは、いろいろある中で、厚顔無恥つまり恥知らずということを意味していると思われます。


2016年11月29日火曜日

243

「フョードル」は言います。

ミウーソフさん、あんなことのあったあとで自分は昼食には行けない、つい夢中になってしまって失礼しました、そして、それだけでなく感動もした、それに恥ずかしいし、人によっては、マケドニア王アレクサンドルみたいな心臓の持主もいるし、子犬のフィデリカみたいな心臓の者もいる、自分は子犬の方ですっかり臆しちまった、それにあんな非常識な振舞いのあとで、まだ食事をよばれたり、修道院のソースに舌鼓を打ったりできますかいな?恥かしくて、とても行けないので、失礼します。

ウィキペディアでは、「アレクサンドロス3世(紀元前356年7月20日 - 紀元前323年6月10日、在位紀元前336年~紀元前323年)、通称アレクサンドロス大王は、アルゲアス朝マケドニア王国のバシレウスである。また、コリントス同盟(ヘラス同盟)の盟主、エジプトのファラオも兼ねた。ヘーラクレースとアキレウスを祖に持つとされ、ギリシアにおける最高の家系的栄誉と共に生まれた。ギリシア語ではアレクサンドロス大王であるが、英語風に読んでアレクサンダー大王またはアレキサンダー大王とすることも多い。」と説明があります。

「子犬のフィデリカ」って、何のことでしょうね。

嫌味を言われた「ミウーソフ」は心の中で『いまいましい野郎だ、が、まさか欺しやせんだろう!』と、遠ざかってゆく道化者を腑におちぬ眼差しで見送りながら、考えこんで立ちどまりました。

「フョードル」はふりかえり、「ミウーソフ」が見守っているのに気づくと、片手で投げキスを送りました。

「フョードル」は憎ったらしいだけでなく、なかなかお茶目なところがありますね。

「ミウーソフ」は「イワン」に唐突に「あなたは院長さんのところへ行くでしょう?」とたずねました。

「イワン」は、自分は昨日から院長さんに招かれているので当然行く、と答えます。

「ミウーソフ」は修道僧がきいていることにさえ注意も払わず、自分もこのいまいましい食事にでなけりゃなるまいと感じていると、相変わらず苦々しげな苛立ちをこめて話を続けました。

そして、われわれがここでしたことを詫びて、あれがわれわれの仕業じゃないことを説明くらいしておかないと、「ミウーソフ」は言いました。


「イワン」は「そう、あれが僕らの仕業じゃないってことは、説明しとく必要がありますね。おまけに父もこないし」と。


2016年11月28日月曜日

242

再び「ミウーソフ」と「フョードル」との掛け合いです。

「いとしい親戚のミウーソフさん」」と言われた「ミウーソフ」は、自分はあんたの親戚なんぞじゃないし、一度だってなったおぼえはない、下劣な人だ!、と言います。

「フョードル」は、自分がそう言ったのは、あんたを怒らせるためにわざと言ったんだ、あんたが親戚付合いを避けるもんだから、しかし、あんたがいくらごまかそうとしても、やっぱり親戚であることは変らない、教会の暦で証明してあげようか、と言います。

詳しいことはわかりませんが、これは「ミウーソフ」が「ドミートリイ」を引き取った際の法的手続きを根拠にしているのでしょう。

そして、「フョードル」は続けて「イワン」に、お前さんには適当な頃合いに迎えの馬車をよこすから、残りたかったら残るといい、と言い、「ミウーソフ」に、あんたは「礼儀から言っても、今から院長さんのところへ出向いて、われわれが向うでさんざ失礼をはたらいたことをお詫びせにゃなりますまいが・・・」と言いました。


「ミウーソフ」は、「あなたが帰るってのは、本当ですか?嘘じゃないでしょうね?」と言いました。



2016年11月27日日曜日

241

そして、「フョードル」は続けて言います。

「おききになりましたか、神父さん、このミウーソフさんはわたしといっしょに残るのがおいやなんですよ、でなけりゃすぐにでも飛んで行くところなんです。行ってきなさいよ。ミウーソフさん、院長さまをお訪ねして、たっぷり召しあがってくるといい!いいですか、失礼させてもらうのは、あんたじゃなく、このわたしですよ。帰りますとも。帰って、家で腹ふさげをしますさ。ここじゃ倅もおっ立たないような気がするんでね、いとしい親戚のミウーソフさん」

私ははじめて「腹ふさげ」という言葉を聞きましたが、昔の言葉でしょうか、それとも方言でしょうか。

「腹ふさげ」をネットで調べても出てこなくて、いろいろと見ているとこんな情報がありました。

NHK連続テレビ小説『花子とアン』で脚光を浴びた村岡花子は、「丘の家のジェーン」(モンゴメリ著)で、「ミード夫人は早速ジェーンに夕食までの『腹ふさげ』だといってバタつきパンをひときれとイチゴのジャムをくれた」、また、「ミード夫人は朝食までの『腹ふさげ』だと言ってジェーンに大きな厚いドーナツを与え、父さんが階下へおりてくるまで…(以下略)」と「腹ふさげ」という言葉を使って訳しています。

つまり、よくわかりませんが、正式の食事までのお腹をもたせるための食事ということでしょうか。

続いて、「ここじゃ倅もおっ立たないような気がするんでね」と、突然下品な言い回しがあらわれます。

しかし、これもネットで得た情報なのですが、「家で腹ふさげをしますさ。ここじゃ倅もおっ立たないような気がするんでね」というところは、ひとつの文脈で、本来は「家に帰ります、家で食事をすることにします、ここでは(食事をすることは)出来そうにありません」というほどの意味。砕けて訳せば、「ここじゃあ食事なんか咽喉を通りそうにありませんのでね」という感じになるでしょう、とのこと。


だからこの部分は誤訳とのことです。


2016年11月26日土曜日

240

「フョードル」が誰にたいして発したかわからない発言に「ミウーソフ」がすぐに、憎々しげに応酬しました。

「わたしは気違い病院や気違いどもの責任はとりませんよ。でも、その代り、あなたのお付合いはごめんこうむります、フョードル・パーヴロウィチ、いいですか、永久にですよ。さっきの坊主はどこへ行っちまったんだろう?」

「気違いども」とは、「フョードル」と「ドミートリイ」のこと、「坊主」とは、修道僧のこと。

《その坊主》、つまり先ほど一同を院長の昼食に招いた修道僧は、待たせることなく現れました。

みんなが長老の庵室の表階段をおりたとたん、まるでずっと待ち受けていたように、そこで客たちを迎えました。

「ミウーソフ」は、「まことに恐縮でございますが、神父さん、院長さまへわたくしの深い尊敬の気持をお伝えいただいたうえ、このミウーソフが突発的な予期せぬ事情のために、心から熱望しておりましたにもかかわらず、どうしてもお相伴の栄に浴すことができなくなりましたと、お詫び申しあげていただきたいのですが」と苛立たしげに修道僧に言いました。


すると「フョードル」が「その予期せぬ事情とやらは、このわたしのことですな!」とすぐに言葉尻をとらえて言いました。


2016年11月25日金曜日

239

「ドミートリイ」は数瞬の間、ショックを受けたように立ちつくしていました。

そして、内心の声です。

「ゾシマ長老」の自分の足もとへの跪拝-これはいったい何事だろう?

そして、やがてふいに『ああ!』と叫ぶなり、両手で顔を覆って、部屋を飛びだしました。

この情景の描写から、「ドミートリイ」は何かに気づいたのでしょう。

そして、それは「両手で顔を覆って」ということですから恥ずべきことだったのでしょうか、それとも別の何かだったのでしょうか、そもそも「ゾシマ長老」は「ドミートリイ」に対しては特別な感情を持っているようですが、彼の中に何を見たのでしょうか、私にはわかりませんが、この辺のことについてはたぶんネットでいろいろな意見が披瀝されていると思いますので後で見てみたいと思います。

「ドミートリイ」が部屋を飛びだしたのに続いて、他の客もみんな、狼狽のあまり主人に別れも告げず、おじぎもせず、一団になって逃げだしました。

司祭修道士たちだけがまた祝福を受けに歩みよりました。

これで、この会合は凄まじい父子の罵り合いのすえ、何かわかりませんが印象的な結末のまま終ったのです。

なぜか急におとなくしなった「フョードル」は「どうして足もとへおじぎなんかしたんだろう、何かの象徴かな?」と、さすがにだれにも話しかける勇気がないまま、会話をはじめようと試みかけましたが、このときはみんな僧庵の囲いから出るところでした。

ここで、「フョードル」は、「ゾシマ長老」の「ドミートリイ」の足もとへの跪拝は「・・・何かの象徴かな?」と言っています。

それは、まさにこの物語の象徴と思われるような行為です。

作者が当事者の口を借りてこのことを言っているようです。

また、見方を変えればこれはたんに感の鋭い「フョードル」の予感なのだとも言えましょう。


「ドミートリイ」は「ゾシマ長老」のこの行為について明確に何か気づいたようですが、「フョードル」も
何かの予感があったようですね。




2016年11月24日木曜日

238

「許せない、もう許せん!」庵室のいたるところから、声があがりました。

醜態にまで達したこの会合の騒ぎは、次のような意外な幕切れで終りました。

ふいに「ゾシマ長老」が席を立ちました。

「アリョーシャ」は、長老や一同に対する不安からほとんどわれを失っていましたが、それでも、すかさず長老の手を支えました。

長老は「ドミートリイ」の方に歩きだし、すぐそばまで行くつくなり、その前にひざまずきました。

「アリョーシャ」は長老が衰弱のために倒れたのだと思いかけましたが違いました。

長老はひざまずいたあと、「ドミートリイ」の足もとにはっきりした、意識的な跪拝をし、額を地面に触れさえしました。

「アリョーシャ」はあまりのおどろきに、長老が起きあがろうとしたとき、助け起すのが間にあわぬほどでした。

長老の口もとに弱々しい微笑がかすかにかがやいていました。


「赦しておあげなさい!すべてを赦すことです!」長老は、客たちに対して四方におじぎをしながら言いました。




2016年11月23日水曜日

237

「ききましたか、え、神父さんたち、父親殺しの言うことをききましたかね?」と「フョードル」は「イォシフ神父」に食ってかかりました。

ここで、「父親殺し」というこの物語の中の象徴的な言葉が使われましたね。

「フョードル」は、「ドミートリイ」への攻撃だけでなく、神父さんたちへの攻撃もはじめます。

「あれがあんたの『恥を知れ』に対する答えですよ!何が恥を知れだ!あの《牝犬》はね、あの《身持のわるい女》は、ことによると、あんたら修行中の司祭修道士なんぞより、よっぽど神聖かもしれませんよ!そりゃひょっとすると、あの女は若いころ、環境にむしばまれて身を持ちくずしたかもしれないけれど、でも、《数多く愛し》ましたからね、数多く愛した女はキリストもお赦しになったじゃありませんか・・・」

これは、「マグダラのマリア」のことなんでしょうか、私は詳しいことはわかりませんので、そのうち調べようと思います。

こともあろうに「フョードル」は、「ドミートリイ」や「ミウーソフ」への攻撃だけでなく、神父さんたちへの攻撃もはじめたのですね。

「キリストはそんな愛のためにお赦しになったのはありません・・・」と、柔和な「イォシフ神父」がたまりかねて、吐きすてるように言いました。

「いいや、そういう愛のためです、まさしくそういう愛のためですぞ、神父さん!あんた方はここでキャベツなんぞで行いすまして、自分たちこそ敬虔な信徒だと思ってらっしゃる。ウグイを食べて、一日に一匹ずつウグイを食べて、ウグイで神さまが買えると思っているんだ!」と。

ちょっと、ひどい言い方になってきましたね。

こうなったら、もはや修復不能です。

実際に修道士たちはウグイを食べていたのでしょうが。


ウグイの写真をネットから拝借しました。(下の写真です)




2016年11月22日火曜日

236

父子の罵り合いを聞いていた「イォシフ神父」も我慢できなくなったのでしょう。

「恥を知りなさい!」と、叫びました。

そして、終始黙っていた「カルガーノフ」が「恥を知りなさい、みっともない!」と、青年らしい声を興奮にふるわせながら、顔を真っ赤にして、ふいにどなりつけました。

意外でしたが、この若者も我慢できなくなったようですね。

「こんな男がなぜ生きているんだ!」と、「ドミートリイ」が、もはやほとんど怒りに狂ったようになり、なにか異常に肩をそびやかし、そのためほとんどせむしに近い格好になって、低い声で唸るように言いました。


そして、「いや、教えてください、この上まだこんな男に大地を汚させておいていいもんでしょうか?」と、片手で「フョードル」を指さしながら、みんなを見渡しました。それは、ゆっくりとした、淡々たる口調でした。


2016年11月21日月曜日

235

「ドミートリイ」は恐ろしい剣幕で眉をひそめ、口ではあらわせぬ軽蔑をこめて父をにらみつけました。

「僕は・・・僕は」低い抑えた声で彼は言いました。「心の天使であるいいなずけといっしょに故郷へ帰って、父の老後を慰めようと思っていたのに、見れば父は淫蕩な狒々爺で、下劣きわまる道化役者にすぎなかったんです!」と。

「決闘だ!」と「フョードル」は息をあえがせ、一言ごとに唾をとばしながら、またわめきたてました。

そして、今度は「ミウーソフ」攻撃です。

「フョードル」は言います。「それから、ミウーソフさん、いいですかね」、あんたの一族には、たった今あんたが牝犬よばわりしたあの女ほど高潔で誠実な女性はおそらく一人もいないでしょう、過去にだって一人もいなかったにちがいないさ、と。

これは、「フョードル」の最初の妻で、駈落ちした「アデライーダ・イワーノヴナ・ミウーソフ」のことが頭に浮かんだのでしょう。

そして、続けます。「ドミートリイ君」、君だっていいなずけをそんな《牝犬》に乗り換えたということは、いいなずけはあの女の踵ほどの値打ちもないと、君自身が判断したということわけで、立派な牝犬じゃないか!、と。

会合もこうなったらダメですね。


単なる罵り合いになってしまいました。


2016年11月20日日曜日

234

「ドミートリイ!」と「フョードル」は突然、別人のような声で叫びました。

「もしお前が息子でなかったら、今すぐ決闘を申し込むところだぞ・・・ピストルでな。距離は三歩・・・ハンカチを、ハンカチ一枚をへだててだ!」と、両足を踏み鳴らしながら、彼は言い終えました。

とうとう怒りが爆発したようですね。

しかし、語り手としての作者は冷静に分析しています。

「一生お芝居をしつづけてきた老いぼれの嘘つきにも、興奮のあまりもはや本当に身をふるわせて泣くほど、大熱演する瞬間があるものだ。とはいっても、ほかならぬその瞬間にさえ(あるいは、ほんの一秒後に)、『お前はまた嘘をついてるな、老いぼれの恥知らずめ。《神聖な》怒りだの、怒りの《神聖な》瞬間だのと言ってやがるくせに、現に今だってお前は役者気どりじゃないか』と、みずから心にささやくかもしれないのだが。」と。

「キレる」という言葉があります。

「Wikipedia」で「キレる(切れる)とは、主に対人関係において昂ぶった怒りの感情が、我慢の限界を超えて一気に露わになる様子を表す、日本の俗語。」と説明されています。そして、「1990年代初期に「若者がキレやすくなった」とマスコミで言われるようになり、一種の「若者に対するレッテル」として社会問題化して扱われることがあった。近年では、「キレやすい老人」「暴走老人」と言われる老人、または「モンスターペアレント」といった子育てをする「キレやすい」中年世代も出現し、若者に限らず「キレる」という現象が議論されている。」とも。

「怒り」と、この「キレる」との関係は、たとえば、「怒り」が高じて「キレる」という場合が多いと思いますが、「怒り」によっては、怒っている状態自体がキレている状態である場合もあると思いますので、不確かなのです。

ここでの「フョードル」の「怒り」はキレているといわれる状態だと思いますが、そういう場合は自分自身を失っていて、自分をなくしているということですから、極端に言えば、何をしてもその責任の所在は当人にはなく、「怒り」の感情に責任があるということになります。

「怒り」あるいは「キレる」の感情が純粋にどこかからやってくるわけで、作中の「《神聖な》怒りだの、怒りの《神聖な》瞬間」というのはそういうことなのでしょう。

しかし、作者のすばらしいのは、「ほかならぬその瞬間にさえ」の後に括弧書きで(あるいは、ほんの一秒後に)と加えたところだと思います。


これは、人間の自意識のあり方を表現しているのだと思います。


2016年11月19日土曜日

233

そして、「ミウーソフ」は、このような会話になってしまっていることで、自分自身が卑しめられ辱しめられているような気持になってしまい、「ここで起ったスキャンダルは、わたしら全員の責任です!」とむきになって言いました。

そして、自分は相手、つまり「フョードル」がどんな人間か承知はしていたものの、ここへ来る途中では、こんなことなぞ予想もしていなかったと、「こんなことは今すぐけりをつけなきゃいけない!、長老さま、信じてください、わたしは今ここで暴露されたくわしい事実を正確に知りませんでしたし、信じたくもなかったのです。今になってやっと、はじめて知りました・・・汚らわしい女のことで父親が息子に嫉妬して、その牝犬と共謀して息子を刑務所にぶちこもうとするなんて・・・おまけに、そんな仲間に入れられて、わたしまでここへ引っ張ってこられたんです・・・わたしは欺されたんです。みなさんにはっきり言っておきますが、わたしはほかの人に劣らぬほど欺されたのです・・・」と。

前の「ドミートリイ」の発言で「スキャンダル」という言葉が出て来ました。

つまり、この会合を「フョードル」が計画したのは、「ドミートリイ」との三角関係を自分に有利にしようとするための「スキャンダル」を引き起こそうと言う魂胆じゃないかと言うことです。

「ドミートリイ」はそう思ったのですが、ここで「ミウーソフ」は今進行している事態はすでに「スキャンダル」だと断言しています。

今まで自分のことを無神論者で自由主義者であるとしてそのような態度をとっていた「ミウーソフ」のここでの発言はなりをひそめ、「長老さま、信じてください」と急に長老を持ち上げるような格好になっています。

そして、自分の保身をあくまで保とうとしています。


こんな「ミウーソフ」はいわゆる知識人の典型かもしれません。


2016年11月18日金曜日

232

「ドミートリイ」はそれ以上、話をつづけることができませんでした。

そして、目がぎらぎら光り、呼吸も苦しそうでした。

庵室にいる人たちも「ゾシマ長老」以外はみんな胸を騒がせており、不安な様子で席から立ち上がりました。

司祭修道士たちはけわしい目でにらんでいました。

そして、長老がどうするかを待っていました。

その長老はすっかり蒼白な顔で座っていましたが、それは興奮のためではなく、病気による衰弱のためで、口もとは哀願するかのような微笑が漂っていました。


彼は怒り狂う人たちを鎮めようとするかのように、ときおり両手をあげかけましたが、このごたごたを打ち切らせるためには、もちろん自分がそうすればできたのですが、長老自身がまだ何事かを理解しようと望み、まだ何かしら納得がゆかぬかのように、さらに何かを待ち受けて、じっと目をこらしているといった感じでした。


2016年11月17日木曜日

231

「それが父親に、父親に向って言う言葉か!ほかの人が相手だったらどうなるんだろう?」と「フョードル」は怒りをあらわにします。

そして、仕返しのつもりかもしれませんが、「そうなんですよ。みなさん。」と、今度は周りのみんなに向って語りかけます。

「フョードル」は続けてこんなことを暴露します。

この町に貧乏ではあるが、立派な退役大尉がおり、彼は不運にも軍務を退かされたのですが、といっても公表されたわけでも、軍法会議にかけられたわけでもなく、名誉は立派に保っているのですが、今は大家族を背負いこんで苦しんでいます。ところが三週間前、わがドミートリイ君が飲屋でこの大尉の顎ひげをふんづかみ往来に引きずりだすなり、公衆の面前でさんざんに殴りつけたんです。それもこれも、その人がちょっとした用件でわたしの私的な代理人をつとめたというだけのことでですから、と。

「ドミートリイ」は「嘘です、そんなことはみんな!うわべは本当でも、中身は嘘っぱちです!」と、怒りに全身をふるわせました。

そして、今度は「フョードル」の秘密を暴露します。

自分は自分の行為を弁解しない、みんなの前で正直に言う。たしかに自分はその大尉に野獣のような振舞いをした。そして、今ではあの野獣のような振舞いを後悔していて、やりきれないくらいだ。しかし、あの大尉つまりあんたの代理人は、あんたが妖婦と表現した女性のところへ行って、自分が財産の清算のことであなたにしつこくつきまとうなら、あんたが持っている自分の手形を彼女が引きとって、その手形をたねに自分を刑務所へぶちこんでしまえるように訴訟を起こしてくれと、あなたの頼みを伝えました。それから、自分があの女性にぞっこん参っていると非難したが、自分を誘惑するように彼女に焚きつけたのはあなた自身だと、彼女はあなたを笑い者にしながら自分に話してくれました。あなたが自分を刑務所にぶちこみたがっているのは、自分に嫉妬しているからだ。自分はわかっているのだが、あなたは彼女に岡惚れしていい寄っているじゃありませんか。これも彼女があなたを笑いものにしながら話してくれました。「どうですか、神父さまたち、これが放蕩息子を難詰している父親なんですよ!みなさん、僕が怒ったのを赦してください。」と、そして、自分はこの抜目ない爺がみなさんをここへよび集めたのは、スキャンダルを起すためだと予感していた。自分は、もし父が手をさしのべたら赦し、自分も赦しを乞うつもりで来たのです!でも、父が今、自分だけでなく、自分が敬虔の念からみだりにその名を口にすることさえはばかっている高雅な令嬢のことまで侮辱したために、たとえ父親であろうと、その企みを残らずみんなの前にあばこうと決心したんです!、と。

「フョードル」が仕込んだ手形の一件はよくわかりませんが、「妖婦」をめぐって「フョードル」と「ドミートリイ」の三角関係が暴露されましたね。


「ドミートリイ」は短気で乱暴者ですね。ただ、「フョードル」と違って自分自身に対して正直であるとは思います。


2016年11月16日水曜日

230

「黙りなさい!」と「ドミートリイ」が叫びました。

そして、自分の前で高雅な令嬢を汚すようなことはやめてください、あんたなんぞが口にするだけでもあの人にとって恥辱なんだから、自分は許しませんよ、と。

「ドミートリイ」はそう言って息をあえがせました。

「フョードル」は、むりに涙をしぼりだしながら、感傷的な口調で「ミーチャ!ミーチャ!」と叫びました。

そして、「それじゃ、親の祝福は何になるんだ?わたしが呪ったら、そのときはどうなる?」と。

私は、宗教的なことがわからないので、この「親の祝福」と「呪う」とのことがさっぱわかりません。


「恥知らずの偽善者め!」と、「ドミートリイ」は狂ったようにどなりつけました。


2016年11月15日火曜日

229

「フョードル」は、「ドミートリイ」が良家の令嬢である婚約者を差し置いて通いつめているというさる妖婦について説明します。

「妖婦とはいえ、さる立派な御仁といわば内縁関係にあったんですが、しかし、自立心の強い気性で、だれにとっても難攻不落の要塞ですから、まあ正妻と同じことでございますね。とにかく操の堅い女ですから。そうなんですよ、神父さま方、身持の堅い女でして!」と。

ここで出てくる「妖婦」というのが、何なのかがよくわかりません。

ネットで調べると「男性を惑わす、なまめかしく美しい女性」とありました。

つまり、ここで言われている「妖婦」というのは、あくまでも商売女ではなく、未婚であって、なまめかしく、美しい女性ということでしょうか。

しかし、「妖婦」の条件としてはそれだけでは何か足りないように思いますが、何でしょうか。

現在では、そのような範疇に属する女性を表わす言葉は存在しないと思いますので、なかなかイメージが掴めません。

そして、「フョードル」は続けます。

ドミートリイ君は、この要塞を黄金の鍵で開けようというつもりだ、と。だから、自分に威張りちらしてお金を巻きあげようとしているわけで、今までにもこの妖婦にもう何千というお金をつぎこんでいる、「それはそうと、だれから借りるとお思いになります?言おうか、どうしようか、ミーチャ?」と。

とうとう「フョードル」の宣戦布告のようですね。

この「フョードル」と「ドミートリイ」の諍いから物語は大きな主題となる展開に繋がっていきます。


2016年11月14日月曜日

228

「フョードル」は、わが子のお金をくすねて、そっくり全額手にいれていると自分のことを非難していると言って「ミウーソフ」を攻撃します。

「じゃ、伺いますがね」と「フョードル」は続けます。裁判所ってものがあって、「ドミートリイ」の受け取りや、手紙や、取決めなどにもとづいて、「ドミートリイ」のお金がいくらあって、どれだけ使って、どれだけ残っているか、ちゃんと計算してくれるのだよ、「いったいミウーソフさんが意見を述べるのを差し控えているのは、どういうわけだね?この人にとってドミートリイ君は他人じゃないのにさ。」みんなでわたしを悪者にして。総計すると、ドミートリイ君が自分からお金を借りていることになり、それも少額ではなく、何千という額であって、ちゃんと証拠も揃っている。「なにしろ、この大将のどんちゃん騒ぎのおかげで、町じゅうが鳴りひびく始末ですからな!」。そして、前に勤務していたところでは、清純な娘さんを誘惑するのに、千の二千のと札びらを切ったものだし。「ドミートリイ君、すっかりばれてるのだよ、ごく内緒の細部にいたるまでね。証明してみせようか・・・」

ここで「ドミートリイ君は他人じゃないのにさ」と「ミウーソフ」に言っています。

これは「ミウーソフ」が、「フョードル」に育児放棄され召使小屋で暮らしていた「ドミートリイ」をひきとったのですから養父という立場です。

もっとも、ひきとってすぐに自分はパリに行ったりして、面倒は従姉妹などが見ていますから無責任ではありますが、「ドミートリイ」にとっては、たいへんな恩人になるはずです。

「ドミートリイ」は三人の子どもの中で、ただひとりお金の苦労をせずに生活できたのです。

さらに、「フョードル」は「神父さま、実を申しますと」続けます。


そして、「ドミートリイ」が数ある娘さんの中でも高雅で、財産もある、良家の令嬢を夢中にさせたのです。それは、彼の以前の上官で聖アンナ剣十字頸章まで持っているある大佐のお嬢さんなのですが、プローポーズして顔に泥を塗ったんです。そのお嬢さんは、今じゃ、みなし児になられてこの町に来ており、こいつの婚約者になっているのですが、こいつは、そのお嬢さんの目の前で、この町に住むさる妖婦のところに通いつめているんです、と。


2016年11月13日日曜日

227

とうとう「ドミートリイ」が憤りにかられて、「フョードル」と同じように席から跳ね起きるなり、叫びました。

「僕がここへくる途中、予想していたとおりのばかばかしい喜劇だ!」と。

そして、「申しわけありません、尊師」と長老に声をかけました。

「ドミートリイ」は続けます。自分は教養がないので、あなたを何とおよびすればいいのかも知らないのですが、あなたは欺されたのです。われわれがここに集まることを許すなんて、あまりに善良すぎます。親父に必要なのはスキャンダルだけです。何のためにかというと、そこが親父の計算です。いつだって計算づくなんですから。でも、今になると何のためかがわかるような気がしますけど・・・、と。

「みんなして、わたしを非難するんですよ。どいつもこいつも!」と「フョードル」は今度は自分の番とばかり、わめきたてました。

そして、続けます。「現にミウーソフさんだって、非難してるでしょうに。非難しましたとも、ミウーソフさん、したじゃありませんか!」と。

「ミウーソフ」は今は別に「フョードル」の話をさえぎろうなどと考えてもいなかったのですが、「フョードル」は突然「ミウーソフ」の方に向き直りました。

計算づくです。


「ミウーソフ」としてはいい迷惑でしょうが、「フョードル」はどうも彼を攻撃するのが好きなようです。


2016年11月12日土曜日

226

「イワン」と「ゾシマ長老」の話が一段落といったところで、「フョードル」が口をはさみます。

彼は椅子から跳ね起きて、「神のごとく神聖な長老さま!」と相変わらず大げさな話ぶりです。

「フョードル」は「イワン」を指さして叫びました。

「これはわたしの息子でございます、わが肉を分けし肉、わが最愛の肉でございます!」と。

このような芝居がかった言い方で、次のように話しました。

シラーの『群盗』を引き合いに出して、「イワン」が尊敬できないカール・モールで、今入ってきたのが息子「ドミートリイ」、こちらはもっとも尊敬できないフランツ・モールと言うことになり、きょうは彼のためにお裁きをおねがいしておりますと。そして、自分は領主フォン・モール伯爵ということになるのでしょう、どうぞ判断してお救いください、わたしらはお祈りだけじゃなく、あなたの予言も必要としておりますので、と。

ところで、岩波文庫の『群盗』(久保栄訳)を読んだのですが、上記の例えはこの劇作の内容からいって適切ではなく、というか、ぜんぜん合っておらず、ただ「フョードル」の言葉の勢いから出てきただけだと思われます。

少し後で「フョードル」はまた『群盗』の台詞を言うところがあるのですが、彼の頭の中にしつこく『群盗』が住み続けていたのでしょう。

「ゾシマ長老」は、「愚かしい話し方はなさらぬことです、それに身内の者を侮辱してはなりませぬぞ」と言いましたが、もはやぐったりした弱々しい声でした。

「フョードル」は長老に注意されてばかりですね、しかし全く反省していません。


長老は明らかに時がたつにつれて、ますます疲労の色が濃くなり、傍目にもわかるほど衰弱していました。


2016年11月11日金曜日

225

そこで「ゾシマ長老」は答えます。

「肯定的なほうに解決されぬとしたら、否定的なほうにも決して解決されませぬ。あなたの心のこういう特質はご自分でも承知しておられるはずです。そして、そこにこそあなたの心の苦しみのすべてがあるのです。ですが、こういう悩みを苦しむことのできる崇高な心を授けたもうた造物主に感謝なさいませ。『高きを思い、高きを求めよ、われらの住み家は天上にあればこそ』です。ねがわくば、あなたがまだこの地上にいる間に、心の解決を得られますように。そして神があなたの道を祝福なさいますよう!
」と。

ここで言われている「肯定的なほうに解決されぬとしたら、否定的なほうにも決して解決されませぬ。」について、どう解釈していいのかわかりませんでしたので、ネットでいろいろ見ているうちに、この会話の前後のやりとりについて、心の病としての自尊心というようなことをキーワードとして書かれたものがありました。

それは、かなりの長文で、しっかり読んではいないのですが、また、その意見に反論される方の文章もありましたが、この自尊心ということを考えながら読むと、前に出てきた「ゾシマ長老」の「受難者も絶望に苦しむかに見えながら、ときにはその絶望によって憂さを晴らすのを好むものですからの。」という会話が、意地悪な言い方ではなくて、言葉のそのままの意味ですんなりと理解できるような気がします。

そして、先ほどの「肯定的なほうに解決されぬとしたら、否定的なほうにも決して解決されませぬ。」ということも二者択一の話ではないことがわかるように思います。

ただ、自尊心という言葉が適切かどうかはわかりませんが、そういうしかありません。

つまり、「イワン」が最も自尊心の病に侵されているということです。

「ゾシマ長老」は、「あなたの心のこういう特質はご自分でも承知しておられるはずです。そして、そこにこそあなたの心の苦しみのすべてがあるのです。」と「イワン」に言い、「イワン」もそれに同意し、わかってはいるのです。

ですから、次のような行動にでたものと思われます。

「ゾシマ長老」が片手をあげ、自席から「イワン」に十字を切ろうとしかけたときに、彼は椅子から立って長老に歩みより、祝福を受け、その手に接吻して無言のまま自席に戻りました。その顔つきはまじめな、毅然としたものでした。

みんなは、予想もしていなかった内容である「イワン」と長老の会話のすべてが、謎めかしく、一種の厳粛さによって驚き、一瞬、鳴りをひそめかけました。

「アリョーシャ」の顔にはほとんど怯えに近い表情があらわれました。

「ミウーソフ」はだしぬけに肩をすくめました。

「イワン」と長老の会話は、みんなには謎めかしかったと言いますので、長老が「イワン」の過度に尊大な自尊心ということを突いたということを理解できなかったのでしょう。


ほとんど怯えに近い表情をあらわした「アリョーシャ」だけが、ふたりの会話の本質がどこにあるかを強く感じていたのでしょう。


2016年11月10日木曜日

224

「ゾシマ長老」は「イワン」に次のように話します。

あなたが論文で教会が国家になればよいと言ったのは冗談ではなく、それはあなたの本心です。しかし、あなたの思想はあなたの心の中で解決されていないので、心が苦しむのです。「しかし、受難者も絶望に苦しむかに見えながら、ときにはその絶望によって憂さを晴らすのを好むものですからの。今のところあなたも、自分の弁証法を自分で信じられず、心に痛みをいだいてひそかにそれを嘲笑しながら、絶望のあまり、雑誌の論文や俗世の議論などで憂さを晴らしておられるのだ・・・」あなたの内部でこの問題が解決されていないので、そこにあなたの悲しみがあるのです。「なぜなら、これはしつこく解決を要求しますからの・・・」と。

「イワン」が信じていないと「ゾシマ長老」がいう「弁証法」とは、神の否定を媒介とした新しいキリスト教による国家の創設でしょうか。

しかし、「絶望によって憂さを晴らす・・・」とか言うのはずいぶん意地の悪い言い方ですね。

それに、「これはしつこく解決を要求しますからの・・・」というのも脅しのように聞こえます。

では、「ゾシマ長老」はどうしろと言いたいのでしょう。

「イワン」もそのことをだずねます。

「ですが、この問題が僕の内部で解決することがありうるでしょうか?肯定的なほうに解決されることが?」と、「イワン」は説明しがたい微笑を
うかべて長老に対し「異様な質問」をつづけました。


ここで言われている「肯定的なほう」とは、無神論的立場ではなく、神を信じるということを乗り越える方向での解決ということでしょう。


2016年11月9日水曜日

223

「本当にあなたは、不死という信仰が人間から枯渇した場合の結果について、そういう信念を持っておられるのですか?」と、ふいに「ゾシマ長老」が「イワン」にだずねました。

「イワン」は「ええ、僕はそう主張してきました。不死がなければ、善もないのです」と。

「もし、そう信じておられるのなら、あなたはこの上なく幸せか、さもなければ非常に不幸なお人ですの!」と長老は言います。

「なぜ不幸なのです!」と「イワン」は微笑しました。

「なぜなら、あなたは十中八、九まで、ご自分の不死も、さらには教会や教会の問題についてのご自分の書かれたものさえも、信じておられぬらしいからです」

つまり、ここで「イワン」は、神がなければ善も悪もなく何をしてもいいのだと言っており、一方それとは関係なく「ゾシマ長老」はそんな「イワン」を神を信じていないから不幸なんじゃないかと言っているだけのように思えます。

「イワン」は「ことによると、あなたのおっしゃるとおりかもしれません!しかし、それでも僕はまるきり冗談を言ったわけでもないのです・・・」と突然異様な告白をし、みるみる赤くなりました。

この「冗談」というのは、「イワン」の論文でいわれていた国家が教会になるということだと思いますが、彼の内心では神を完全に否定しているのではなく、そうなることを望む心は自分の本心でもあるのだと言っているのでしょう。


つまり、彼が頭で考え常日頃主張していることと、ある一面かもしれませんが論文で言っていることとの矛盾が、「異様な告白」であり、赤面の理由なのでしょう。


2016年11月8日火曜日

222

「ドミートリイ」も「ミウーソフ」が語る「イワン」の「自然の道徳律」の話を熱心に聞いていましたが、その内容が彼の心の琴線に触れたかのように突然「失礼ですが」と叫ぶように声を発しました。

「聞き違いしたくないものですから。『悪業は許されるべきであるばかりか、あらゆる無神論者の立場からのもっとも必要な、もっとも賢明な出口として認められさえする』こうでしたね?」と。

「そのとおりです」と「パイーシイ神父」が言いました。

これは、「イワン」がある集まりで語ったとされる「悪行にもひとしいエゴイズムでさえ人間に許されるべきであるばかりか、むしろそういう立場としては、もっとも合理的な、そしてもっとも高尚とさえ言える必然的な帰結として認められるべき」ということを「ドミートリイ」なりの解釈で『悪業は許されるべきであるばかりか、あらゆる無神論者の立場からのもっとも必要な、もっとも賢明な出口として認められさえする』としたものです。

このことは、人間がなにものにも束縛されず自由な行動をとるならば、いわゆる「悪」とされる行為でも行うのであり、むしろ自由というからには、「悪」ということに束縛される方がむしろ悪いことになるので、あらゆる「悪」ということをも行う方が理にかなっている。つまり、ここで「性悪説」を例に挙げるのはおかしいかもしれませんが、人間本来の行動はなにものにも縛られない「悪」が基本になるものであって、結局は『悪業』は「自然の道徳律」である、ということでしょうか。

「パイーシイ神父」も「ドミートリイ」に同意しているのですが、この「ドミートリイ」が取り上げた部分の自分自身の心情の即したかのような解釈はこの物語全体の伏線となる重要な部分です。

だから、「パイーシイ神父」の同意のあとで、「おぼえておきましょう」と言う言葉を発しています。

そして、そう言ったまま、彼は話に突然割りこんできたときと同じように、ふっと口をつぐみました。

みなは好奇の目で彼を見つめました。


もう少し物語が進むとはっきりわかるのですが、すでに町の人びとは「ドミートリイ」について何か不穏な雰囲気を感じていたのであって、会合の出席者はこの発言によってさらにその思いが再認識されたのでしょう。


2016年11月7日月曜日

221

「ミウーソフ」は、自分が話し出した話題を打ち切るようにと再びお願いしました。

あまり突っ込んで話したくなかったのでしょう。

そして、「その代わり、ほかならぬイワン君に関するきわめて興味深い、この上なく特徴的な話を、みなさんにご披露しましょう」と言います。

それは、つい四、五日前のことで、この町の主として上流婦人を中心とする集まりでのことでした。彼は議論の中で得々として明言したそうです。

「つまり、この地上には人間にその同類への愛を強いるようなものなど何一つないし、人間が人類を愛さねばならぬという自然の法則などまったく存在しない。かりに地上に愛があり、現在まで存在したとしても、それは自然の法則によるのではなく、もっぱら人間が自分の不死を信じていたからにすぎないのだ。」

続いて、「イワン」が括弧つきで言い添えたのですが、と「ミウーソフ」が言い添えて「これこそ自然の法則のすべてなのだから、人類のいだいている不死への信仰を根絶してしまえば、とたんに愛だけではなく、現世の生活をつづけようという生命力さえ枯れつきてしま」い、そうなれば、もう不道徳なことなど何一つなくなって、すべてが、人肉食いさえもがゆるされるのであり、しかも、結論として力説したのは「たとえば現在のわれわれのように、神も不死も信じない個々の人間にとって、自然の道徳律はただちに従来の宗教的なものと正反対に変わるべきであり、悪行にもひとしいエゴイズムでさえ人間に許されるべきであるばかりか、むしろそういう立場としては、もっとも合理的な、そしてもっとも高尚とさえ言える必然的な帰結として認められるべき」ということです、みなさんわが親愛なる奇人の逆説家イワン君が提唱している、そしておそらくこの先までまだ提唱するつもりでおられる、他のすべてのことに関しては、今のパラドクス一つで、十分ご推量いだだけると思いますが、と。

何を言っているのか難しくてわかりません。

「自然」というものと「神・不死」を対立させていることは何となくわかりますが、「自然の道徳律」という言葉が急に出てきて戸惑うのですが、これは、「トマス・アクィナス」の自然法の哲学に依ったもののように思えますが真相はわかりません。

もし、そうだとすれば、「イワン」の言いたいことは「自然の道徳律」つまり、人を殺してはいけないとかいう規律は、永遠のものではなく、従来の「自然の道徳律」は廃棄されてあたらしい「自然の道徳律」に変わるべきだと言うことになります。

それにしても、「イワン」はさっきまでは、理念としてのキリスト教を支持していたような話ぶりだったのですが、ここでは無神論者として発言しているようです。


なんだかすっきりしない人物です。

2016年11月6日日曜日

220

「ドミートリイ」が遅刻して現れて「ゾシマ長老」と「フョードル」と挨拶を交わしたりした時間は、せいぜい二分かそこらということです。

その前に話されていた「ミウーソフ」の「キリスト教徒の社会主義者」の話題が中断されたのはわずかそのくらいでしたので、話は再開されると思われたのですが、「ミウーソフ」は「パイーシイ神父」のしつこい、苛立たしい質問に対してはもう答える必要はないものと考えました。

そこで「ミウーソフ」は「この話題はもう勘弁してください」と社交ずれした、くだけた口調で言いました。

そして、「おまけに、この問題は厄介でしてね。ほら、イワン君がわれわれのことを笑っていますよ。きっと今度もあの人には何かしら興味深い説でもあるんでしょう。ほら、あの人におききになってごらんなさい」と。

「イワン」はすぐに、「ちょっとした感想以外、特にこれといってありませんがね」と答えました。

そして「イワン」は続けます、一般的にはヨーロッパの自由主義やロシアの自由主義的なディレッタンチズム、つまり学問や芸術を愛好する人たちの傾向性でさえ、ずっと前から社会主義の究極の結果とキリスト教とのそれとを混同しており、こういう野蛮な結論というのはもちろん特徴的な一面ではあるのですが。先ほどの話だと社会主義とキリスト教を混同するのは自由主義者やディレッタントだけじゃなく、多くの場合それに加えて憲兵もそのようですね。もちろん外国の話ですが。あなたのパリの話はかなり意味深長でしたよ、ミウーソフさん、と。


憲兵と言ったのは、この話がパリで公安刑事の隊長が話した内容ですからね。


2016年11月5日土曜日

219

長老への挨拶を終えた「ドミートリイ」は次に、もはや今や敵対者となっている父親の「フョードル」の方をふりかえり挨拶をします。

その挨拶は長老にしたのと同じようなうやうやしく深々とした一礼でした。

このおじぎについて、彼はあらかじめ考えぬき、これによって自分の敬意と善意をあらわすのを義務と見なして、真剣に思いついたことは明らかでした。

この丁寧なおじぎの一礼に「フョードル」は不意をうたれましたが、すぐに彼らしく立ち直り、「ドミートリイ」のおじぎに答えて椅子からはね起き、そっくり同じように深いおじぎを返しました。

このへんは、おもしろい心理的なやりとりが表現されていますね。

「フョードル」は「ドミートリイ」のことだから挑戦的で横柄な態度をとるか、意図的に自分のことを無視するんじゃないかとでも思っていたかもしれません。

ここでは、「ドミートリイ」の作戦勝ちですね。

しかし、さすがに「フョードル」は立ち直りが早く、次の一手を考えつくのも早いもので、「ドミートリイ」と同じおじぎを返します。

そして、「フョードル」はそんな行動をとった自分を反省したのかもしれません。

急にその顔が重々しい、威厳のあるものになり、そのためにかえって露骨に敵意を示した顔つきになりました。

遅刻をしてやってきた「ドミートリイ」ですが、むしろ「フョードル」に対しては有利な展開です。


「ドミートリイ」は部屋にいる人すべてに無言のまま一礼し、いつもながらの大股なきびきびした足どりで窓に歩みより、一つだけ残っていた「パイーシイ神父」の近くの椅子に腰をおろすと、椅子の上で全身をのりだし、自分のために中断された話のつづきをきこうと身がまえました。


2016年11月4日金曜日

218

「ドミートリイ」の容姿と町での風評のあとは、突然現れた今の彼の様子の説明です。

①フロックコートのボタンをきちんとかけ、②黒手袋をはめ、③シルクハットを手にし、④非の打ちどころのないスマートな服装で入ってきました。そして、つい先ごろ退役したばかりの軍人らしく、⑤口ひげをたくわえ、⑥顎ひげは今のところ剃りおとしていました。⑦栗色の髪を短く刈りあげ、揉み上げだけ前の方にとかしつけてありました。⑧歩き方もきびきびと大股で、いかにも軍人らしい様子でした。

「ドミートリイ」は戸口で一瞬立ち止まり、みなを見渡したあと、長老を主人と察して、まっすぐにその方に歩み寄りました。

彼は深々と一礼して、祝福を乞いました。

長老を腰をあげ、祝福してあげました。

「ドミートリイ」はうやうやしく長老の手に接吻し、ほとんど苛立ちに近いほどの異常な興奮状態で次のように言いました。

「こんなにお待たせしてしまって、ほんとうに申しわけございません。でも、父の使いできた召使のスメルジャコフに、時間のことをくどいほどたずねたのに、二度までも約束は一時だとはっきり答えたものですから。ところが今になってふいに・・・」

「ご心配なさいますな」長老がさえぎって言いました。「かまうものですか、ほんの少し遅刻なさっただけです。たいしたことはございません・・・」

「まことに恐れ入ります。やさしいお気持から言っても、そうおっしゃっていただけるものと期待しておりましたが」と「ドミートリイ」は挨拶を打ち切るようにぴしりと言って、もう一度おじぎをしました。

「ドミートリイ」の遅刻の理由について、召使の「スメルジャコフ」が間違って伝えたからと書かれていますが、「・・・ところが今になってふいに・・・」と言ったまま、話は長老にさえぎられました。

次に続く言葉は何だったのでしょう。

「スメルジャコフ」が伝言を終えてずっと「ドミートリイ」のところにいるはずはないと思いますので、間違いに気づいた「スメルジャコフ」が直前になって再び「ドミートリイ」の家を訪ねたのでしょうか。

しかし、一番大事な集合時間を召使の「スメルジャコフ」が間違えたりするのは不自然ですし、「ドミートリイ」の服装もきちんとしており、慌てて用意した様子ではありませんでした。たしかに「スメルジャコフ」はどこか優柔不断なところがあって、少しふらふらして頼りないところがありますので、彼が思い違いをしたということは完全には否定できませんが。

それでは、「ドミートリイ」が嘘をついて、遅刻の理由を「スメルジャコフ」のせいにしたのでしょうか。

しかし、「ドミートリイ」はそんな小賢しい嘘をつくような人間ではありません。

もうひとつ、「フョードル」の仕組んだ芝居だった可能性もあります。

彼は、約束の時間に現れていなかった「ドミートリイ」のことを「息子に代わってお詫び申しあげます。」と詫びてはいるのですが、息子のことは相当憎んでいます。

そして、彼なら何でもやりそうで、そんなこともやってしまうかもしれないと思わせるところがあります。


真相は不明ですが、長老も誰かを批判する言葉はこの場で聞かない方がいいと思って途中でさえぎったのでしょうから、ここはこのままでということです。


2016年11月3日木曜日

217

そして、次に「ドミートリイ」の町での風評のようなことが書かれています。

彼の顔にはいくぶん病的に見えるところがありました。

なぜ、そうなのかは町の誰でもが納得しうるような理由がありました。

その理由は二つあります。

一つには彼の《無頼の》生活によるものです。

つまり、ここではまだ詳しく書かれていませんが、彼がこの町で浸りきっている見ていてはらはらさせられるような生活態度です。

それは、この町のだれもが知っていることであって、知らなくてもその噂はみんな知っていました。

そして、もう一つは、父「フョードル」と係争中であるお金をめぐってのことで、彼はそのことで極度の苛立ちに達しているのでした。

このことも町のだれもが知っていましたし、それについてのいろいろなエピソードも巷に広がっているのでした。

そんなことでしたから彼がいくぶん病的な様子であることも無理もないことだったのでしょう。

また、彼が生まれつきの癇癪もちだったことは事実であり、この町の治安判事「セミョーン・イワーノウィチ・カチャーリニコフ」がある集まりで彼のことを《正常を欠く突発的な思考》の持主であると的確に表現したことも事実でした。


つまり、この町で「ドミートリイ」は今ちょっとした話題の人物であったということですね。