2016年6月30日木曜日

91

この章はほんとうは、「ゾシマ長老」の紹介の章ですが、作者はよほど、「アリョーシャ」の容貌や性格についての説明をここでしたかったのしょう。

それも、◯◯は◯◯であると読者は考えるかもしれないが、そうではなくて実は◯◯なのである、という形式を3度も繰り返しています。

ひとつ目は先に見たように「アリョーシャ」は病的で虚弱な夢想家であると読者は思うかもしれないが、そうではなくて実は、均斉のとれた身体つきの美男子であり・・・です。

そして、ふたつ目です。

「アリョーシャ」の赤い頬は狂信や神秘主義のあかしではないかと考える人もいるかもしれないが、そうではなくて実は、誰にもまして「現実主義者だったような気がする。」と「わたし」は言っています。

ここで出てくる「現実主義者」には、「リアリスト」というルビがふられています。

作中に出てくる「わたし」は彼が「現実主義者だったような気がする。」と過去形を使っているのが気になります。

この小説は13年前を振り返るという形で書かれているので、13年後に「アリョーシャ」の身に何かあり、彼のことを知っている「わたし」が昔を振り返っているのです。

しかし、「第二の小説」は書かれませんでしたので、詳細は不明です。

ここで言う「現実主義者」は、現実にそくして物事を判断する人と、考えていいでしょうか。

彼は修道院に入ってから「全面的に奇蹟を信じてはいた」とのことです。

しかし、「わたし」は「奇蹟が現実主義者を困惑させることなど決してないのである。」と。


2016年6月29日水曜日

90

五 長老

この章は、「ゾシマ長老」の章ですが、今まで謎だった「アリョーシャ」の容姿の描写からはじまります。

まず、作者は読者に問いかけます。

今まで書かれていた「アリョーシャ」のイメージは、「異常なほど感激しやすい、発育の遅れた病的な性格の、青白い夢想家で、虚弱な痩せこけた人間であると、考える人がいるかもしれない。」と。

いやいや、若いのに、ちゃんと自分の考えを持ち、行動的で、人に優しく、思いやりがある立派な青年のように、思えますので、読者はそんな貧弱な様子なんて考えないのではないでしょうか。

そして、作者もそのように言います。

「むしろ反対にアリョーシャはこのとき、頬が赤く、明るい眼差しをした、健康に燃えんばかりの、体格のよい十九歳だった。」

さらに続けて、彼は美男子であり、中背で均整のとれた身体つきで、栗色の髪、いくらか面長で端正な瓜実顔、間隔の広くあいているダークグレイの目はかがやきを放ち、瞑想的な落ち着いた青年だったと書かれています。

ここまで、折りたたむようにしつこいほど描写されれば、読者の方も手に取るように印象づけられ、やっと、主人公らしくなってきました。


2016年6月28日火曜日

89

「フョードル」は続けます。

彼は自分ような飲んだくれ爺やいかがわしい女たちが出入りするような家にいるよりは修道院の方がいいだろうと言います。

そして、「お前は天使」で何物も手を触れることでできないと思うし、それで修道院行きを許可したし、「お前の分別」は悪魔に食われていないので、「勢いよく燃えて、火が消えて迷いがさめたら、帰ってくるんだな。俺は待っているよ。」と。

ここで「フョードル」は世の父親たちの言うようなことを言い、少し感傷的になっています。

彼は心がねじれてはいましたが涙もろい人間でしたので最後に「お前だけがこの俺を非難しなかった、この世でたった一人の人間だと感じている」と言って、すすり泣きしたのです。

これで、「フョードル」の長い独白は終わりますが、この父親になんの非難もしなかった「アリョーシャ」の存在は神さまというか、何とも言いようがありません。



2016年6月27日月曜日

88

「フョードル」は「アリョーシャ」の発言に驚いたのでしょう。

ある意味自分と同じだと思ったのではないでしょうか。

「お前はどうして、鈎がないってことを知ってるんだ?」

そして、「しばらく坊主のところにいりゃ、そんな台詞は吐かなくなるだろうよ。」

この部分というのは、私には理解しづらいのですが、本当の宗教者というのは、天国や地獄が実在すると考えている人たちで、そこに至らぬ宗教的な人たちがたくさんいて、彼らはそれらをただ「影」として、つまりイメージとして頭の中に持っているだけの人たちということでしょうか。

そうするとかなりハードルが高くなりますが、本当はそれが宗教と非宗教を分ける壁なのでしょうか。

彼は「アリョーシャ」が修道院に入って、宗教に関する「真実を探りあてたら」帰ってきて話してほしいと、「地獄がどんなものかをちゃんと知っていれば、あの世へ行くのも気が楽だろうしな。」と言います。

これは、酔払いの発言とは思えませんね。

行って、覗いて、理解して、教えてくれということでね。

凡人が宗教を理解するには、本を読んだり、坊さんに聞いたりするより、身近な人が宗教の世界に出入りする経験を聞くのがいちばん説得力がありますね。

こういった発言を聞くと「フョードル」自身は「鈎がない」、つまり宗教などないと信じきって、自由気ままに生きている人間ではありますが、ただ身のうちのどこかに一抹の不安を抱えているのだと思います。


2016年6月26日日曜日

87

「鈎がなけりゃ」と「フョードル」の自問的な会話は続きます。

自分のような破廉恥きわまりない人間だって、鈎がなければ、地獄へ引きずっていかれないだろうし、もしそうだとすると「真実はどこにあるんだい?」と。

「だから、ぜひともそれを、その鈎を考えだす必要があるんだよ。俺だけのためにも、特別にな。」

酔払ってはいますが、「フョードル」のするどい宗教批判です。

ここにきて、はじめて「アリョーシャ」がひとこと、まじまじと父を見つめながら静かに言葉をはさみます。

「でも、地獄には鈎なんてありませんよ。」

これから修道院に入ろうという人としては、これも思い切った発言だと思いますが、「フョードル」はさらにその上をいきます。

「そうさ、そうだとも。あるのは鈎の影だけだよな。それは知ってるよ。」と。

そして、「フョードル」は17世紀のフランスの詩人、シャルル・ペローが地獄のことをうたった詩を引用します。

『わたしの眼に映じたのは、ブラシの影で馬車の影を拭いている馭者の影であった』

そもそもシャルル・ペローという人はどんな人でしょうか。

じつは日本でもよく知られている『長靴をはいた猫』や『赤ずきん』や『眠れる森の美女』などの作者なのです。

私はまったく知りませんでしたが、昔話や民間伝承を童話として書いた人だそうです。

それだけではなく、学芸に関して古代人と近代人のいずれが優れているかをあらそった「新旧論争」でも有名なようです。

岩波文庫から「完訳ペロー童話集」が出版されています。


2016年6月25日土曜日

86

酔払っいのお喋りは、「しかし、俺はお前と別れるのが淋しくてならんよ」と、少々泣き言も入ってきて延々と続きます。

彼は自分のように愚かで罪深い人間のために祈ってくれるような奇特な人がこの世の中にいるのだろうかと、常々考えており、お前が修道院に入ったら「ちょうどいい機会」だから祈っておくれというようなことを言い出します。

独白はこのへんから、支離滅裂になってきて「俺が死んでも、悪魔たちが鈎で引き寄せるのを忘れる、というわけにはいかんものだろうかと思うのさ」「鈎だなんて?」悪魔がどこから鈎を手に入れるのだろうか、「材質は何だ?鉄だろうか?」だったら、やつらのところにも工場かなにかがあってそこで作るのだろうか」などと。

そして、地獄の天井の話になります。

修道院の坊さんたちは、地獄に天井があると考えているが、自分が仮に地獄を信じたとしても、そこに天井があるとすると「せっかくの地獄が何かこう、垢ぬけた文化的な、つまり、ルーテル派式のものになっちまうからな」と言います。

本筋から外れますが、「フョードル」はなぜ、「垢ぬけた文化的な」地獄を「ルーテル派式のもの」と形容したのでしょう。

「ルーテル派」をネットで調べればいろいろ出てきますが、いちばん簡単なのは「はてなキーワード - はてなダイアリー」で、「1517年、宗教改革者マルティン・ルターによって生まれた、プロテスタント(新教)の一派。」という説明されています。

これでは、1860年代のロシアから見た「ルーテル派」の地獄感などさっぱりわかりませんし、もっと詳しい説明をいくつか読んでみたのですが「ルーテル派」のどこが「垢ぬけた文化的」であるのかわかりませんでした。

「フョードル」の話に戻ります。

彼は地獄に天井があるのとないのでは大違いで、問題はそこにあると言います。

「だってさ、もし天井がないんなら、つまり、鈎もないってわけだ。」と。

「フョードル」は、地獄に天井がなければ、悪魔が持つ引っ掛け鈎の存在もない、ということは地獄そのものがないんだから、神もいないんじゃないかということを言っているのでしょう。

なんだか、酔払いのたわごとではありますが、何だか神の存在にかんする重たい内容になってきています。


2016年6月24日金曜日

85

酔払った「フョードル」のお喋りは勢いづいてきて、ますます饒舌になります。

活字では本当の調子はわかりませんが、実際にはろれつもおかしくなってきているのではないでしょうか。

話は「さる修道院の話」に移ります。

その修道院は三十人くらいからなる《修道院妻》とまわりから呼ばれている小さな村を郊外に持っていて、自分もそこに行ったことがあり、「一種、毛色が変わっているという意味」でおもしろかったそうです。

そして、「ただ、胸くそのわるいことに、そこはおそろしいロシア趣味」でフランス女なんぞ一人もいない、いればいい金儲けができるのに、と言います。

ろくでもない話しですが、そこから、「アリョーシャ」の入りたいと言ったこの町の修道院の話しになります。

「ここの修道院」には坊主ばかり二百人ほどいるだけで、そのようなことなど何もない、斎戒精進の徒だから清潔なものであることは自分も認めていると。

そして、ここまで喋って、急に思い出したように「じゃ、お前は坊主の仲間入りするというんだな?」とあらためて「アリョーシャ」に言います。


2016年6月23日木曜日

84

「フョードル」の独白めいた会話は「あの長老は、もちろん、あそこじゃ、いちばん誠実な坊主だよ」からはじまります。

このとき、彼はほろ酔い機嫌だったせいもあり、「アリョーシャ」が修道院に入りたいと頼んだときも、さほど驚きもしませんでした。

しかし、酔っているので間延びした、「しかし抜目なさや酔払いのいたずら気を失ってはいない薄笑いをうかべ」ていました。

「お前がいずれはそんなことをやるだろうと、ちゃんと予感はしておったがね。おどろいたか?やっぱりそんなところをねらっておったのか。まあ、それもいいだろうさ、お前だって二千ルーブルも自分の金を持ってるんだろうから、それが持参金てわけだ。」

こんな具合に酔払いのくどくどした話しは続きます。

彼は自分も「アリョーシャ」のためだったら、「乞われれば」寄進もすると言いますが、頼まれなかったらする必要はないとも。

結局は口から出まかせでその気はないようですけど。

そして、皮肉っぽく「アリョーシャ」の「金のつかい方なんて、カナリヤと同じで、週に二粒ずつがいいところだからな」とも。

まともに聞く必要もないような酔払いの会話ですが、酔払っているからこそぽつんぽつんと本心が顔をのぞかせるところもあると思います。


2016年6月22日水曜日

83

「アリョーシャ」は「グリゴーリイ」に母の墓の場所を教えてもらったころ、父「フョードル」に、大事なお願いをしました。

それは、修道院に入りたいということでした。

ずいぶんと思い切った人生の選択だと思いますが、彼のことですから考えに考え抜いた結果、もう自分には、その道しかないと思いつめたのでしょう。

そして、その修道院にはたぶん何度も行き来しており、僧たちも彼を見習い僧として受け入れてくれるという了解まで得ていました。

「アリョーシャ」は「これは自分のたっての望みであり、父親として晴れの許しをおねがいしたい」と説明しました。

ここでは書かれていませんが、修道院の僧たちの意見として、父親の許可を得たほうがいいということがあったのかもしれません。

結局、その願いは許されるのですが、もし「フョードル」に反対されたらどうするつもりだったのでしょう。

「フョードル」は修道院の有名な「ゾシマ長老」がこの《おとなしい坊や》に影響を与えたことをすでに知っていました。

彼は「アリョーシャ」のことを《おとなしい坊や》と呼んでいたようですので、その《おとなしい坊や》の思い切った決断であって、また、そんなことがあるかもしれないことをうすうす気づいていたふうでもありますから即座に断ることはできなかったのでしょう。


2016年6月21日火曜日

82

「フョードル」が喋ると、真っ黒な虫歯の欠け残りが見え隠れする口元から、唾が飛びました。

彼は、まるで道化のようなところがあって、そんな崩れかけた容貌のことも冗談のたねにして、自分では満足しているようでした。

よくある自虐ネタというやつですね。

聞いている人の心を逆手にとって、本人はそのことに開き直っているようですが、変に内にこもるよりはいいかもしれません。

彼は、自分のあまり大きくなくて、非常に細くて、段になっていて目立つ鼻を指差して、「これが本当のローマ式の鼻だよ。これと咽喉仏が相まって、正真正銘の退廃期の古代ローマ貴族の風貌といえるんだ」とよく自慢していたそうです。

先に描写された「フョードル」の顔のイメージは、彫刻で見るローマ貴族の風貌とぜんぜん違うように思いますが、本人も「退廃期の」の言っていますので、まあいいでしょう。


2016年6月20日月曜日

81

これまでにも「フョードル」のことは、さんざんなことが書かれてきました。

多くは内面的なことでしたが、今度は彼の容姿について具体的に書かれています。

これにより、「フョードル」の顔がはっきりと目に浮かんできました。

以前にも、彼は年齢よりひどく老けこんでしまったと書かれていましたが、ここでは、「ひどく皮膚がたるんできた」と表現されています。

彼の容貌は今や、彼が「これまで送ってきた全生活の特徴と本質とをはっきり証明するような感じを示してきた」のです。

いわゆる、生き方が顔に出る、ということですが、「フョードル」の場合はこれまでの行ないから予想されるようにあまり気持ちのいいものではありません。

具体的に書かれています。

「いつも厚かましく、疑い深く、せせら笑っているような小さな目の下の、たぶついた長いたるみ」
「小さいけれど脂ぎっている顔に刻まれた、無数の深い小皺」
「いやらしいほど好色な印象を与え」ている尖った顎からぶらさがっている「財布のように細長く肉の厚い咽喉仏」
「唇のぽってりした、淫らがましい横長の口」
「話し出すと」そのたびに唾が飛ぶ口は「唇のかげから、ほとんど腐りはてた真っ黒けな歯の小さな欠け残り」

容姿で人を判断するのはよくないことですが、「財布のように細長く肉の厚い咽喉仏」というのが特に印象的でした。


2016年6月19日日曜日

80

「ソフィヤ・イワーノヴナ」の墓の一件は、「フョードル」にある特殊な影響を与えました。

彼はいきなり、千ルーブル、百万円をひっつかんで、亡妻の法要をするために修道院に行ったのです。

しかし、亡妻といっても「ソフィヤ・イワーノヴナ」ではなくて、かつて「彼をさんざ打ち据え」、あげくに教師とともにペテルブルグに逃げて屋根裏部屋で死んだらしい「アデライーダ」の法要でしたから驚きます。

なぜ、この状況のもとで最初の妻の法要なのでしょうか。

「ソフィヤ・イワーノヴナ」は「グリゴーリイ」が墓を建ててくれたから、それでいいと思ったのでしょうか。

「アデライーダ」からは結婚当初、2万5千ルーブル、2千5百万円もの持参金をまきあげたことに胸の痛みを感じていたからでしょうか。

「フョードル」の気持ちはわかりませんが、その晩、彼は「アリョーシャ」の前で飲んだくれて、修道僧たちをさんざん罵ったそうです。

「フョードル」自身、「宗教とは縁遠い人間で、」と作者は書いています。

彼は聖像の前に、5ペイカ、五円の蝋燭1本もそなえたことがない人間です。

そして、「こういう手合いには、突発的な感情や思考の異様な発作がよくあるものなのだ。」と。


2016年6月18日土曜日

79

召使の「グリゴーリイ」は「ソフィヤ・イワーノヴナ」に対しては、非常に思うところがあって、主人に楯つくことがあったくらいに、生前の彼女をかばっていました。

そして「グリゴーリイ」は彼女の墓を建てるように何度も「フョードル」に言ったようです。

しかし、「フョードル」は墓を建てるどころか、いっさいの思い出に見切りをつけてオデッサへ旅立ってしまいました。

ですから、「グリゴーリイ」は自分のお金で彼女の墓を建てたのです。

それは、墓地のいちばん奥の一隅にあり、「安物ではありましたが、小ぎれいな鋳物の墓碑で、故人の名前、身分、年齢、没年などが表記されており、さらに下の方には、中流階級の人の墓碑に多く用いられる、古めかしい追悼詩の中から四行詩らしいものまで掘ってあった。」そうです。

「グリゴーリイ」はここに「アリョーシャ」を案内したのです。

しかし彼は、母の「墓所では何ら特別な感傷を示さなかった。」ようです。

これは意外な反応ではありますが、彼がもしも墓の前に泣き崩れるようであれば、彼の心の中の複雑な思いを想像してみることさえできないでしょう。

「グリゴーリイ」はこの墓の建立について、道理にかなったおごそかな話をし、「アリョーシャ」は頭を垂れてしばらくたたずんでいたあと、一言も言わずに立ち去りました。

彼はそれ以後、おそらくまる1年は墓地を訪れなかったようです。


2016年6月17日金曜日

78

「フョードル」の荒廃した日々の生活の中において、「アリョーシャ」が戻ってきたことは幸いであったと言えるでしょう。

年よりはやく老けこんだこの老人に「はるか昔にしぼんでいた何者かが目ざめたように見えた。」そうです。

それは、言葉のいい意味での前向きなことではありません。

「フョードル」のどうしようもない過去だけあって、「目ざめた」としても、それはやはりどうしようもない過去のことでした。

しかし、過去をどんどん切り捨てていく彼にとっては、あくまでも彼にとってはなのですが、なつかしい昔の記憶のひとつではあったのでしょう。

彼は「アリョーシャ」をまじまじと眺めながら、「あの癲狂病み」に「瓜二つだぞ」と言うようになりました。

彼の亡妻で「アリョーシャ」の母の「ソフィヤ・イワーノヴナ」のことを「あの癲狂病み」と言うのですからどうしようもありませんね。

そして、「フョードル」が忘れていた「あの癲狂病み」の墓の場所を「アリョーシャ」教えたのは、結局、陰気で愚かで意固地な理屈屋と形容された召使の「グリゴーリイ」なのでした。


2016年6月16日木曜日

77

「フョードル」のロシア南部での9年間の生活は、ますます彼を荒廃させたようで、女癖の悪さなどは、いままで以上に鼻持ちならぬようになっていました。

ただ、どんな手段を使ったのかしりませんが、お金だけは稼いだようです。

彼はたぶん10万ルーブル、つまり1億円ほどはないかもしれませんが、だいたいそのくらいのお金を手に入れているらしく、郡内一帯にたくさんの飲み屋を持つようになりました。

そして、郡内の多くの住民は、確実な担保を入れてからですが、さっそく彼に借金をするのでした。

彼はお金を貯め込んでじっとしているタイプではなくて、さらに増やそうとしていろんなことに挑戦します。

彼のような人間がお金を増殖するために行動範囲を広げようとすると、何かいろんなところでトラブルが起こりそうです。

最近の彼の様子について、作者は次のように書いています。

皮膚がたるんできて、落ち着きがなく、仕事のけじめを失うようになり、軽薄になり、ひとつのことに集中できず、どことなくだらけてしまい、酒に溺れることが多くなり、めっきり老けこんだと。

そんなどうしようもない「フョードル」ですが、忠僕の「グリゴーリイ」は「ときには哺育係に近いような感じで監督」していました。

「フョードル」も彼がいなければやっていけなかったでしょう。


2016年6月15日水曜日

76

「フョードル」がオデッサからこの町に帰ってきたのは、「アリョーシャ」の帰郷の3年ほど前でした。

「かつての知人たちは、彼がまだそんなに老人でもないのに、ひどく老けこんでしまったのに気づいた。」そうです。

ここで、「フョードル」の年齢が気になりましたが、それはわかりませんでした。

では、彼は何年くらい家を離れていたのでしょう。

「アリョーシャ」が4歳のときに、母がなくなり、翻訳の関係ではっきりとわかりませんが、それから3~4年後に「フョードル」がロシア南部に行ったとします。

そして、「アリョーシャ」が20歳の時にこの町にやってきたと、どこかで書かれていましたので、その3年前に「フョードル」が帰ったのですから、彼がロシア南部にいたのは9年間くらいではないでしょうか。

老け方にもひとそれぞれの個性がありますが、彼の場合は最悪です。

彼の性格のひどさは、これまで何度も繰り返しかかれていましたので、わかっているつもりですが、9年の年月を経て上品になるどころか、反対に「なにやらいっそう厚かましくなった。」そうです。

「たとえば、かつてのこの道化の内に、他人に道化の装いをさせようという不逞な欲求があらわれたのである。」とのことです。

ロシア南部でユダヤ人たちの中で覚えたのは、お金を貯める才覚だけではなかったのですね。

道化も自分でやっているうちはまだかわいいのですが、人に強要するとなると話は別です。


2016年6月14日火曜日

75

ここからはしばらく「フョードル」のことです。

「二度目の妻の死後、三、四年間というもの、彼はロシア南部におもむき、」と書かれていますが、この部分は米川氏と亀山氏の訳では、死後三、四年経ってからロシアの南部に行ったとなっています。

それから最後にオデッサに数年間腰を据えました。

オデッサはウクライナの南部の黒海に面した大きな貿易都市でした。

「フョードル」自身に言わせれば、最初は《大勢のちんけなユダヤ人の男女》と知り合いになり、最後は《れっきとしたユダヤ人の家にも迎えられる》までになったとのことです。

彼は生涯のこの時期にお金を貯める才覚を身につけたようです。

ユダヤ人といえば、前にも出てきましたね。

「ソフィヤ・イワーノヴナ」と結婚するときに、たぶん卑劣な手口の仕事だったのでしょうが、たぶんユダヤ人と組んで彼女のいる県にいたのです。

オデッサをWikipediaで調べるといろいろと面白いことが書かれてありました。
ちょっと長くなりますが、自分の興味のある部分だけ抜き書きします。

「オデッサはウクライナ最大の港湾を備え、ウクライナを代表する工業都市、リゾート地としても知られている。 ロシア帝国時代には黒海に面する港湾都市であるオデッサはロシア帝国と外国の経済・文化の交流の拠点となっていた。20世紀のオデッサ出身の作家スラーヴィンはオデッサの人間の気質について「何かを理解するためにはどんなものでも手でじかに触り、歯で噛んでみなければ気のすまない人だった」と説明している。」
「ペテルブルクからの追放処分を受けていた詩人アレクサンドル・プーシキンは、オデッサ滞在中の一時期ヴォロンツォフに仕えていた。プーシキンとヴォロンツォフの妻は恋仲になり、ヴォロンツォヴァ夫人がプーシキンに贈ったヘブライ文字が刻まれた指輪はオデッサに伝説を残した。プーシキンが指輪を持ち帰ったにもかかわらず、指輪はオデッサに残されていると信じられ、指輪がオデッサを守護し続けていると言われている。」
「1941年10月16日から1944年4月10日までオデッサはナチス・ドイツの占領下に置かれ、複雑に入り組んだ地下の石灰岩の採掘跡を拠点としてパルチザン活動が行われた。第二次世界大戦中にオデッサの多くの建物が破壊され、280,000に及ぶ人間が虐殺・連行されたが、犠牲者の多くはユダヤ人だった。ドイツ軍に対するオデッサ市民の抵抗を顕彰され、戦後町は英雄都市の称号を与えられた。」
「ロシア帝国の他の都市と異なり、オデッサではユダヤ人の生活に課せられる制限が少なく、抑圧に苦しむ多くのユダヤ人がこの町に移り住んだ。18世紀後半のポーランド分割後、オデッサにポーランド出身のユダヤ人が多く移住し、19世紀後半には町の人口の35%近くをユダヤ人が占めるようになっていた。オデッサのユダヤ人は商業以外に法曹、医療といった専門分野で活躍し、病院、学校、孤児院などの社会的な施設を設立した。オデッサはロシア帝国最大のユダヤ人都市となり、19世紀と20世紀の変わり目には人口の約3分の1がユダヤ人で占められていた。1870年代以降オデッサでは二度の大規模なポグロムが発生し、1905年に起きた最大のポグロムでは1,000人の死者が出、50,000人のユダヤ人が退去したと言われている。」
(ポグロムとは、ロシア語で「破滅・破壊」を意味する言葉である。特定の意味が派生する場合には、加害者の如何を問わず、ユダヤ人に対し行なわれる集団的迫害行為(殺戮・略奪・破壊・差別)を言う。)

他にもエイゼンシュテインの『戦艦ポチョムキン』で有名な大きな階段があることや、プーシキン博物館 があったり、オペラ・バレエ劇場のことなど、文化面でも書ききれないくらい魅力のある町です。

ひとつだけ加えますと、ウクライナ人を父に持つ昭和の大横綱、大鵬の銅像がオデッサ市沿海地区に建てられているそうです。


2016年6月13日月曜日

74

母の墓に参ろうとした「アリョーシャ」でしたが、とんでもないことに「フョードル」は「棺に土をかけたあと」一度も行ったことがなく、その場所すら忘れていたのです。

ですから息子に母の墓を教えることはできませんでした。

「アリョーシャ」の落胆は予想できますが、後である人が母の墓の場所を教えてくれますので安心してください。

ここまででも「フョードル」のマイナス面がたくさん描かれてきました。

現実にはなかなかお目にかかれないくらいのどうしようもない人物で、これでもかこれでもかと言った具合に悪さの数がどんどん加算されてきています。

作者は、考えつく限りの悪を「フョードル」に凝縮しようとしたように思えます。

この章は、「アリョーシャ」の紹介の場所ですが、ここで作者は「ついでにフョードルのことにも触れておこう。」と言って再び彼を取り上げています。


2016年6月12日日曜日

73

「アリョーシャ」がこの町に戻ってきた理由について、作者ははっきりとは書いていませんが、読者には、はっきりとわかります。

最初、父の「フョードル」は「なぜ学校も終えずに、舞い戻ってきたんだ?」としつこく問いただしました。

「フョードル」のことですので、長兄「ドミートリイ」がそうだったように、お金が目的だと思ったからでしょう。

少し前のところに書かれていますが、「フョードル」は息子たちのことをよく知りもしないのに「イワンとアレクセイという二人の息子もいずれはきっと乗りこんできて金をせびるにちがいないと、いつも心配しつづけて」いるような人間です。

「フョードル」は「くだくだと」質問しました。
もしかすると「ドミートリイ」のことを例にあげて、お金が目当てじゃないかと話したのかもしれません。

それに対し「アリョーシャ」はまったく何も答えませんでした。

そして、沈んだ様子だったそうです。

「アリョーシャ」はこのときはじめて自分の父親「フョードル」に対面したわけです。

普通なら、おおいに失望するとともにいろいろな思いが交錯して何をどう考えていいのか判断停止状態におちいったりしそうですが、「アリョーシャ」のような人間の場合はまた別のような考え方をしているのかもしれません。

「アリョーシャ」が何も答えないので、「フョードル」はなおさらしつこく追及したのでしょう。

そして、ほどなく、「アリョーシャ」が母の墓を探していることがわかりました。

それで「アリョーシャ」は母の墓にお参りするために帰省したと「フョードル」に一応もっともらしい理由をつけて話そうと思いました。

「アリョーシャ」は嘘などつけぬ性格なので、実際はそう言わなかったのではないかと思いますが、もし言ったとしたら、どうのように話したのか興味があるところです。

そんなことは作者にしかわからないことですが、「だが、はたして帰郷の理由がそれだけに尽きるかどうか、疑わしいものだ。」ともったいぶって書いています。

さらに続けて、「何より確かなのは、そもそもいったい何がふいに心の奥から湧き起って、彼を何か新しい未知の、しかし避けられぬ道に否応なしにひきこんだのか、当時は自分でもわからなかったし、絶対に説明できなかったにちがいないということだけだ。」

これが、この町に戻ってきた理由だと今はっきりとわかりました。


2016年6月11日土曜日

72

「アリョーシャ」は2年で県立中学を中退しました。

そして突然、父のところに行くと、世話になっている「エフィム・ペトローウィチ・ポレノフ」の親戚らしい二人の婦人たちに告げました。

ここでは、父のところに行く理由はまだ書かれていません。

婦人たちは、彼のことが好きでしたので、父のもとへ行かせたたくはなかったのですが、仕方なかったのでしょう。

彼は旅費の工面のために、ポレノフ夫人たちが外国旅行に行く前に与えてくれた時計を質に入れようとしたらしいのですが、婦人たちは許さず、彼に旅費を与え、他にも新しい服や肌着など気前よく買い与えました。

しかし、彼はどうしても三等で行きたいからと言い張って、旅費の半額を婦人たちに返しました。


2016年6月10日金曜日

71

「アリョーシャ」がお金のことや世間のことに無頓着なのは、彼の人柄をほんの少しでも知った人ならすべて、彼がいわゆる「神がかり行者」のような人物だと思って納得するでしょう。

ですからたとえ、突然に大金をもらったとしても、頼まれればあげてしまうだろうし、たとえば慈善事業に寄付したりもするだろうし、ペテン師にだって頼まれたら渡してしまうほどなのです。

ここで、浮世離れした「神がかり行者」って何でしょう。

「ユロージヴイ」と言語の読みのルビがふられ、さらに括弧書きの訳注で(狂人にひとしい苦行僧で、予言の才があると信じられていた)と書かれています。

何となくわかるような気がしますが、たとえば昔、村や町のどこかにそういう人がいたというような話を聞いたことがありますが、それは「アリョーシャ」のイメージとちょっと違いますね。

ここでまた、亀山郁夫さんの光文社古典新訳文庫の「カラマーゾフの兄弟1」の「読書ガイド」を見てみましょう。

亀山さんは、「神がかり行者」を「神がかり」と訳しています。

他にも「瘋癲行者」「聖痴愚」「佯狂者」「聖愚者」などの訳があるそうです。

その特徴として、「何よりも社会的ルールや通念から自由である点、財産を持たず、半裸や裸足の姿で歩き回り、常軌を逸した言動を見せ、時には権力者に歯向かうこと、などがある。」そうです。

そして権力者も、「通常の人々より神に近いとされ、人々から深く敬われる」「神がかり」に手をかけることはなかった、と。

ドストエフスキーはこの「神がかり」をこよなく愛し、多くの小説で登場させているとのことです。

「アリョーシャ」はそこまではいかないと思いますが、お金の価値などについては「まるきり知らぬにひとしい」のです。

ですから小遣いなど自分から頼んだことは一度もなく、たとえもらったとしても、ずっと使い道がわからないか、あっという間に使ったりなんかするでしょうと書かれています。

あの、金銭とブルジョワ的公正ということに関しては口やかましい「ピョートル・アレクサンドロウィチ・ミウーソフ」が後日、あるときしみじみ「アリョーシャ」を見つめてから、こんな名文句を吐いたことがあったといいます。

「ひょっとすると彼は、人口百万の見知らぬ都会の広場にいきなりただひとり、無一文で置き去りにされても、決して飢えや寒さで滅びたり死んだりすることのない、世界でたった一人の人間かもしれないね。」そして、そうなっても彼なら誰かにすぐに食事や居場所を与えられるだろうし、そうでなくてもひとりで何の努力や屈辱も感じないで落ち着き場所を見つけることでしょうし、また、居場所を与えてくれた相手もそれを重荷には感じさせないし、むしろ反対に相手に喜びさえ感じさせるかもしれないと。

聞けば聞くほど主人公の「アリョーシャ」はかなり特殊な人物との印象が強くなってきて、今後の展開に一抹の不安を覚えます。

ここで、冒頭の「作者の言葉」で書かれていいることをおさらいしましょう。

作者は、主人公として設定した「アリョーシャ」のことを「人間として彼は決して偉大ではない」、「こんなつつましい、とらえどころのない主人公」などと書いています。

そして、そんな主人公のことをなぜ小説に書くのか、という読者からの質問を予想してとまどいを覚えています。

しかし、作者は、「わたしにとって彼はすぐれた人物である」と言い切っていますし、そして「わが主人公アレクセイ・フョードロウィチの意義」がその特殊な奇人ぶりの中に時代の核心のようなものを含んでいるのだというようなことも言っています。



2016年6月9日木曜日

70

「アリョーシャ」は6~7歳のときに、将軍夫人の筆頭相続人である篤実な「エフィム・ペトローウィチ・ポレノフ」に引きとられたのですが、彼が死んでからもさらに2年県立中学に在籍しました。

県立中学と書かれていますが、この当時のロシアの教育制度について、やはり亀山郁夫さんの光文社古典新訳文庫の「カラマーゾフの兄弟2」の「読書ガイド」に書かれています。

それによると、中学は3年が原則で入学年齢については特別な規定はなかったそうです。

ということは、彼は中学をまるまる1年残して中退していますので、入学してすぐに「エフィム・ペトローウィチ・ポレノフ」は亡くなったことになります。

さて、「エフィム・ペトローウィチ・ポレノフ」亡き後すぐに、傷心のポレノフ夫人は女性だけの家族全員を連れて長期のイタリア旅行に旅立ちました。

そして残された「アリョーシャ」は「エフィム・ペトローウィチ・ポレノフ」の親戚らしい二人の婦人の家に引きとられましたが、自分自身はどういう条件で引きとられたのかも知りませんでしたし、自分が誰のお金で暮らしているのかもよくわかっていませんでした。

このように、普通の人ならば、気にするようなことにまったく気づかないのは「アリョーシャ」らしいと言えばそうなのですが、この性格は兄の「イワン」とは正反対でした。

「イワン」の場合は大学の最初の二年間は働きながら苦労して貧乏生活をつづけ、幼いころから見知らぬ人の情けで生活していることに息ぐるしさを感じ、苦い思いを味わっていました。

むしろ「イワン」の方が普通の感情だと思うのですが、作者は「アリョーシャの性格のこんな奇妙な一面を、あまりきびしく難ずるわけにはゆかぬような気がする」と書いています。

作者は少し「アリョーシャ」に甘いように思えるのですが、さて、それにはどんな理由があるのでしょうか。


2016年6月8日水曜日

69

誰か友達が《あのこと》を《アリョーシカ・カラマーゾフ》に話しはじめると、彼はあわてて指で耳をふさぎました。

それを見て、みんな集まってきて、無理やり耳から指を離して、両方の耳にさらに猥雑なことを大声で言ったりしましたが、そんなとき彼は身をふり放して、床にちぢこまり、突っ伏して、両手で顔を覆うのでした。

それでも、彼は怒りもせずに黙って堪えるのです。

そうしているうちに、みんな飽きて彼にかまわなくなり、《女の子》などとからかうこともやめて、かえってある意味で同情さえするようになりました。

ここで、はじめて《アリョーシカ・カラマーゾフ》という名称が使われていますが、アリョーシカというのは、さらに卑称的な感じと括弧書きで書かれています。
カラマーゾフのアリョーシカ坊や、みたいな感じでしょうか。

それでも、彼は勉強では常にトップクラスの優等生でした。

しかし、一度も首席になったことはなかったそうです。

ということは、彼は勉強ができる子ではありましたが、目立つことが苦手なので、トップを目指すこともなく、適当にやっていたのでしょうか、しかし、彼の性格から、成績や順位などまったく関心がなく、普通にやっていて、自然とトップクラスにいたのかもしれません。


2016年6月7日火曜日

68

今まで良いところばかり描かれていた「アリョーシャ」でしたが、ひとつだけ弱点がありました。

それは「女性に関するある種の言葉やある種の会話」のことです。

中学のすべての友人たちは、別に悪気はないのですが、そのことで純真な彼が過剰に反応するのを面白がってからかうのです。

いわゆる猥談ですね。

作者は《あのこと》と書いていますが、学校では、まだほんの子供にひとしい少年たちが教室内で《あのこと》をひそひそと、時には大声で話し合っていると。

学校の生徒のことを「わが国のインテリ上流社会の、まだ年端もゆかぬ子供たち」と作者は表現していますが《あのこと》に関する知識は相当なもので、兵士たちでも知らないことも多いそうです。

しかし、それは年齢的に言ってもまだ「道義的退廃」のようなものではなく、「道徳蔑視」と言ってもただ外面的なものであって、そういうことは子供たちのあいだで「何かデリケートで微妙な、男っぽい、真似しがいのあるものとみなされることが珍しくない」と。

表現しずらいのですが、成長段階における世界共通のある種の心の動きですね。


2016年6月6日月曜日

67

「アリョーシャ」は侮辱されてもそれを根に持つようなことは決してありませんでした。

たとえ、誰かに侮辱されたとしてもその後で、何もなかったかのように、普通に返事をしたり、「人なつこい冷静な態度」で話しかけたりするのです。

そしてそのような態度も、うかつにも侮辱されたことを忘れてしまったり、偉そうに侮辱した相手を赦してやったりということではなく、「ただそんなことを侮辱と見なしていない」だけなのでした。

ということは、「アリョーシャ」は侮辱されたことがわからなかったのでしょうか、それともわかっていながら大人の対応をとっていたのでしょうか。

しかし、「そんなことを侮辱と見なしていない」ということですので、彼にとっては、みんなと違った、もっと大事な価値判断の基準があって、侮辱したりとかされたりということなどはあまり問題ではなかったのでしょう。

侮辱されても感情のしこりを残さないということは大人でもなかなかむずかしいのですが、彼のそのような細かいことにとらわれない態度も彼の周りの子供たちにとっては、たいへん魅力的なことでした。


2016年6月5日日曜日

66

「アリョーシャ」は子供たちの中で自分が目立とうとすることは一度もありませんでした。

そのため、だれのことをも決して恐れませんでした。

どういうことでしょう?

常に平常心でマイペース、そして怖いものなしということですね。

このころからすでに宗教者のようではありませんか。

おそらく現実には、このような子供は存在しないのではないかと思いますが、作者はここで最も理想的な人間を子供の中に創造しようとしています。

周りの子供たちはすぐに、彼が自分の大胆さについて自分で気づいていないのだとわかりました。

この部分を訳者は「一方、子供たちは、彼が決して自分の大胆さを得意がっているわけではなく、自分が大胆で不敵であることを理解していない様子をしているだけなのだと、すぐにさとった」と訳しています。

この訳だと、彼がわざと自分の大胆さを理解していないふりをしているように読めますが、今までの流れから言ってもそうではないと思います。


2016年6月4日土曜日

65

「アリョーシャ」の学校のとき、どのような生徒だったのでしょう。

周りの人から好かれる才能のことは、学校生活の中にでも同じでした。

たとえば、彼はよく、みんなから離れてひとり考えにふけったり、片隅で本を読んだりしていることもありました。

そして彼は、活発であったり、快活であるようなときはほとんどありませんでした。

しかし、まわりの生徒たちは、それが気むずかしい性格からではなくて、むしろ反対に、「アリョーシャ」という人は、物静かで落ちついている人間なのだというふうに理解しました。

そして、「級友たちはすっかり彼を好きになり、在学期間を通じてずっと全校の人気者とよんでいいほどであった」そうです。


2016年6月3日金曜日

64

「アリョーシャ」は幼いころから、みんなに愛されました。

将軍夫人が亡くなり、恩人であり、養育者である「エフィム・ペトローウィチ・ポレノフ」の家に引きとられたときも、彼は実の子供同然に見なされるほど家族全員の心を惹きつけました。

彼がこの一家に引きとられたのは、たぶん5~6歳くらいだと思います。

ですから、「打算的な狡さや要領のよさなどの、取り入って気に入られようとする技巧や、自分を愛するように仕向けようという才覚だのがあったとは、とても考えられない」のです。

つまり、「自分に対する一種独特な愛情をひき起こさせる才能を、彼はみずからの内に、いわば天性そのものの中に、ごく自然に直接そなえていたのである」ということです。

まさにそれは、持って生まれた性格というものでしょうね。

こればかりは、いくら努力しても手に入れることができません。

不平等ではありますが、どうしようもできないことです。


2016年6月2日木曜日

63

最初のうちは「フョードル」にしてみれば、自分にまったく非難めいた態度を取らない「アリョーシャ」のことを腹に一物があるのではないかといぶかっていましたが、2週間とたたぬうちに、ころりと考えが変わってしまいました。

「もっとも、一杯機嫌の感傷で、酔いの涙を流しながら」ではありましたが、「やたらと息子を抱きしめて接吻する」ようになったのです。

「フョードル」は「心底から深い愛情を息子にいだいた」ようです。

そして、「彼のような人間がこれほど人を愛したことは、もちろん、これまでに一度もないこと」でした。

「アリョーシャ」は、愛などとは無縁で、疑い深い「フョードル」のような人間でも、変えてしまうだけの何か底知れぬ力を持っていたのです。

逆に言えば、「フョードル」は、彼の態度から推し量られる好ましい性格について、それは外面だけのものではなく、彼の本心から出るものであるということを見抜いていたのですね。

それはそれでまた恐ろしいですね。


2016年6月1日水曜日

62

「アリョーシャ」が久しぶりにこの町の父「フョードル」の家に戻ってきたのは20歳のときでした。

当時、「フョードル」の家は彼の放蕩の巣窟のようになっていました。

そのような経験のない若い「アリョーシャ」にとっては、見るに堪えぬような場面ですが、そんなときでも彼は、「ただ黙って席をはずすだけで、だれに対しても軽蔑や非難の色など露ほども示さなかった」そうです。

これには、「フョードル」も驚いたでしょう。

「フョードル」はかつて居候暮らしの経験もあってか、侮辱されることには敏感で、「勘の鋭い」ところがありました。

たとえば「ソフィヤ・イワーノヴナ」と一緒になるときや「ドミートリイ」と会ったときもそうでしたが、彼は自分の全く個人的なゆがんだ基準で、人の心を見透かしてそれを逆手にとるようなところがありましたね。

最初のうちは、「フョードル」は何も非難めいたことも言わない「アリョーシャ」に対して、「疑い深そうな気むずかしい顔で息子を迎えた」そうです。

作者は括弧書きで、「フョードル」は「やけに黙りこんでやがるけれど、肚の中でさんざ非難してやがるんだろう」と誰かに言っていたと、書いています。

こんなことまで、他人に喋っていたのですね。


「フョードル」は自分が悪いことをしているという自覚はあるからそうなるのだと思いますが、どんな顔をして接すればいいのか迷うほど「アリョーシャ」の態度が腑に落ちなかったのでしょう。