2016年5月31日火曜日

61

ここからしばらく「アリョーシャ」の性格分析が続きます。

羅列してみます。

1 人々を愛し、終生、人間をすっかり信じきって暮らしているように見えた
2 しかし、彼をお人よしと見なしたり、単純な人間と見なす人はいなかった
3 終生、彼は人を裁いたり、批判したりしないと感じさせる何かがあった
4 自分がつらくても、すべてを赦しているようだった

彼はこういった性格だったので、若いころから「だれひとり彼をおどろかすことも、怯えさせることもできぬほどの域にまで達し」ていました。

誰もがこうでありたいと思うほどの人格者で、誰からも好かれるタイプですね。

ここまでは抽象的な性格描写ですが、この後からそれらの具体例が述べられ、それを知ると彼のすばらしい人間性がより深くわかります。


2016年5月30日月曜日

60

「アリョーシャ」には美しい母の思い出を話すような相手は「めったに」いなかったそうです。

しかし「めったに」と書かれいますから、兄の「イワン」には話したのかもしれませんね。

「イワン」とは、6年くらいだと思うのですが、同居していますので。

少年時代と青年時代の「アリョーシャ」は、ほとんど感情を表にあらわさず、口数も少なかったそうです。

しかしそれは、変なふうに人を疑ったり、内にこもったり、気むずかしかったり、人見知りだったというのではなく、彼には自分の内面の悩みとでもいうものがあって、それがその時の彼にとってはかなり重要なことと思っていましたので、そういったことに夢中になるあまり他者との関係がおろそかになったせいなのです。


2016年5月29日日曜日

59

「アリョーシャ」の覚えている母「ソフィヤ・イワーノヴナ」の記憶は次のようなものでした。

「開け放された窓」に「沈みかけた太陽の斜光(この斜光がいちばん強く心に残っていた)」が差し込み、「部屋の一隅の聖像」の前に「ともっている燈明」があり、母は聖像の前にひざまずいていました。

ここまでは美しい情景ですが、一変します。

母はヒステリーのような金切り声や叫び声をあげながら幼い「アリョーシャ」を痛いほどぎゅっと両手で抱きしめて、聖母マリヤの庇護を求めるかのように祈りながら彼を聖像の方にさしのべていました。
「・・・そこへ突然、乳母が駆け込んできて、怯えきった様子で母の手から彼をひったくる」
「こんな光景なのだ!」
「アリョーシャが母の顔を記憶にとどめたのも、その一瞬だった」
「その顔は狂おしくこそあったが、思いだせるかぎりの点から判断しても、美しかったと、彼は語っていた」

以上が「アリョーシャ」が一生おぼえていたという母の記憶ですが、これは、記憶の断片というよりは、小さなストーリーをなしています。

感嘆符が付けられるほどに実に緊迫した状況の奇妙な記憶で、彼はその記憶の中でも特に太陽の斜光が印象に残り、狂ったような美しい母の顔を生涯にわたって覚えていたのです。

そして、乳母が「怯えきった様子で母の手から彼をひったくる」ところが、非常に大きな意味を持ち、この複雑な感情をともないうる悲惨な記憶が彼に与えた影響は計り知れないものがあるのではないでしょうか。

「アリョーシャ」を宗教の道にみちびいたのもこういうことなのかもしれません。


2016年5月28日土曜日

58

ここで、記憶というものについて、一般的にどういうあらわれ方をするのかということが書かれています。

それは、「闇の中の明るい点」か「全体はすでに色あせ消えてしまった巨大な絵からちぎりとられ、わずかにそれだけ残った小さな片隅」のようにあらわれてくると言っています。

たとえば、昔見た映画のシーンなどではそういうことがありますね。

しかし、私は自分のことを考えてみると、絵の一部分が特別に記憶に残っているということはありません。

これは作者の妻が書いた回想録に書かれていたことですが、ドストエフスキーはラファエロの『システィーナの聖母』を人類の最高傑作と言って、この絵の前で感動し興奮し何時間も立ちつくしていたのだそうです。(下の写真です)

この絵は、265cm×196cmの巨大な絵で、聖シクストゥスと聖バルバラを両脇にして、聖母マリアが幼児キリストを抱きかかえており、下の方にふたりの天使が描かれています。

ドストエフスキーは晩年、ある伯爵夫人から周囲の人物をのぞいた原寸大の聖母子部分だけの複製を送ってもらい、自室のソファーの真上に飾ってしばしば絵の前にたたずんで、深い感動にひたっていたそうです。

これは、先ほどの「巨大な絵」からちぎりとられた「小さな片隅」にぴったりと当てはまるエピソードですね。

むしろ、「小さな片隅」をじっと凝視することによって、まわりの全体が暗く消えそうになることだってあるかもしれません。



2016年5月27日金曜日

57

母の「ソフィヤ・イワーノヴナ」が亡くなったのは、「アリョーシャ」がまだ数えの4つのときでした。

そして、幼少時の別れにもかかわらず彼が母のことをよく覚えていたことは、前に書かれています。

その文章は「実にふしぎなことではあるが、彼がそのあと一生、もちろん、夢のなかのようにぼんやりとにせよ、母親をおぼえていたのを、わたしは知っている」と書かれていました。

しかし、ここではこう書かれています。

「彼がそのあと終生、母の顔立ちや愛撫を《まるで生ある母が目の前に立っているように》おぼえていたことは、すでに述べたとおりである」と。

両方の文章をくらべると、前は、ぼんやりとおぼえていたのですが、後の方ははっきりと、というようにかなり印象が違いますね。

やはりこの違いも前者は「わたし」が介在していて、後者は作者が直に述べていることだからでしょうか。

これに続く文章は、もっと変です。

「こうした思い出はもっと幼い、二歳ころからでさえ、心に刻まれうるものであるが(これも周知の事実だ)」と。

ここにきて、幼少時の記憶の起点が4歳から2歳へと変わっています。

しかも、(これも周知の事実だ)と書いていますので、後からまわりの誰かに聞いて、軌道修正をはかっているかのような書き方ですね。


私は前の文章をささっと手直しすれば、読者は何のひっかかりもなく読み進んでいけると思いますが、このようなひっかかりがあることによって、その後の作者の悪戦苦闘の手直しが生じ、それが作品の厚みにもなっているのかも知れません。


2016年5月26日木曜日

56

そして、「アリョーシャ」が、この修道院に入ったことには重大な理由があります。

それは、この修道院に有名な「ゾシマ長老」がいたことです。

彼の「充たされることを知らぬ心」は、はじめての熱烈な愛情のすべてを「ゾシマ長老」に捧げるほどに彼に心服したのです。

それは、彼が心の中で思っただけではなく、自ら修道院に飛び込んで行ったという思い切った行動が示しています。が、しかし、作者は、少し突き放して微妙に含みのある表現をしています。

「ゾシマ長老」は「彼の考えによれば当代まれに見る人物である」と、「アリョーシャ」の個人的な趣向による熱狂ぶりと言わんかのように、少し遠くから客観的に見ているようです。

そして、「彼がごく幼いころを皮切りに、当時もすでにたいそう変わった人間だったことに対しては、わたしも異論はない」と続き、変わり者の彼だから、そして、生まれてはじめて熱狂するような対象が見つかったのだから、そのように夢中になったのは無理もないというような書き方です。

ここで、「わたし」が出てきているのですが、この「わたし」は「アリョーシャ」を客観的に見ている「わたし」であり、彼の幼いころをよく知っている「わたし」でもありますから、前に出てきたこの町の住人のひとりであるらしい「わたし」とは違って、作者の心情そのものにごく近いところにある「わたし」になっています。


2016年5月25日水曜日

55

四 三男アリョーシャ

作者が「序文的な物語」と言うカラマーゾフ家のメンバー紹介ですが、「フョードル」「ドミートリイ」「イワン」と進んで、ついに最後の「アレクセイ」愛称「アリョーシャ」の番がやってきました。

彼はこのとき、20歳になるかならず、兄の「イワン」は数えで24歳、長兄の「ドミートリイ」は数えで28歳でした。

ここでも年齢計算は数えで、わかりにくいですが、だいたいでいいのでしょう。

ここで「わたし」は忌憚なく意見を述べると、「アリョーシャ」について、少なくとも狂信者でもなく、神秘主義者でもなかったし、ただ「ごく初歩の人道主義者」と言っています。

狂信者>神秘主義者>「アリョーシャ」=「初歩の人道主義者」です。

ですから、彼が「修行の道にひたすらすすんだ」としても、そのとき、偶然か必然か、彼が進むべき道として、それだけが最善の道としてあったというにすぎないのです。

作者は「言うなれば」と前置きして、彼が「俗世の憎しみの闇」をのがれ「愛の光に突きすすもうとあがく彼の究極の理想」を示してくれたのが修行僧の道だったと言っています。

仮に宗教の世界をあちら側の世界と言うとすると少なくとも今のところ、彼はこちら側の世界の人ですね。


2016年5月24日火曜日

54

「謎」の多い「イワン」の帰郷ですが「父を相手に大喧嘩をもくろみ正式の訴訟さえ考えていた長兄ドミートリイと父の仲裁者か調停者」といった様子だったそうです。

まあ、確かにはじめはそうだったかもしれませんが、その後の「イワン」の行動は、これから起こるいろいろな事情によって腰砕けのようになっていくのです。

作者は「くどいようだが」と前置きして、「この家族はこのとき生涯ではじめて全員が一堂に集まった」そして、「生まれてはじめて顔を合わせる者もいた」と書いています。

いよいよ物語の中心となる人物がひとつの舞台に登場しましたね。

と言ってもここでは、「フョードル」と「ドミートリイ」と「イワン」と「アレクセイ」のカラマーゾフ一家だけですが。

各人それぞれの背景がかなり詳細に描かれていましたので、生き生きと彼らのイメージを想像できるのですが、この小説の主人公と作者がいう「アレクセイ」だけは、まだ十分に紹介されていません。

彼は、一年ほど前からこの町で暮らしておりましたので、兄弟の中では一番早く登場したことになります。

そして、作者は「わたし」という名称で、「未来の主人公」の「アレクセイ」について、この「序文的な物語」で語るのがいちばんむずかしいとことと言っています。

それは、そうでしょう、彼は登場時すでに僧衣を身につけての登場でしたので。

「アレクセイ」は一年近くこの町の修道院で見習い僧として暮らしており、「生涯そこに身を埋めるつもりでいるように見えた」といいます。

当然、なぜ見習い僧になったのか、彼についても説明が必要になります。

そして、次の章は「アレクセイ」の愛称「アリョーシャ」として紹介されます。



2016年5月23日月曜日

53

前回、書いた三つの?のうちのひとつ。

「ドミートリイの頼みと用件」については、彼に関係する「ある重大な出来事」のことであると書かれています。
そして、「それがどういう出来事か、読者はいずれ詳細にいたるまで完全に知るはずである」と。

作者が言うように、これがこの小説の内容そのものなのです。

「イワン」はこの帰郷ではじめて「ドミートリイ」に会いました。

兄弟であっても母親が違いますし、特殊な事情のためまったく会うことはなかったのです。

しかし、「イワン」が「ドミートリイ」のことを知ったのは、もう少し前のことでした。

「イワン」はモスクワを発つ前から、彼と「重大な出来事」について手紙のやり取りをしていたそうです。

たぶん「ドミートリイ」の方からが少し有名だった「イワン」に接触したと思います。

しかし、「イワン」の存在を「ドミートリイ」に教えたのは誰でしょう。

「ドミートリイ」と敵対している「フョードル」が教えるということは考えにくいです。

そうなると、考えられるのは、この町に1年ほど前から暮らしているという三男の「アリョーシャ」が二人の対立を知り、次男の「イワン」に相談したのかも知れませんが、本当のことはわかりません。

ここで再び「わたし」の登場します。

前から何度も触れられていた「イワンの謎」についてですが、「わたし」があの「重大な出来事」に関する「特別な事情」を知ってからでさえ、「わたしにはイワンが謎の人物に思われたし、彼の帰郷もやはり説明しがたいものに思われていた」と。

「イワンの帰郷」の「謎」について作者の描写はしつこいくらいです。
前に「宿命的な帰郷」は「わたし」にとって、「その後永いこと、ほとんど終始、理解しえぬ問題でありつづけた」と書いています。
そして、その訳は「ドミートリイの頼みと用件」と種明かししています。

それでも、「わたしにはイワンが謎の人物に思われたし、彼の帰郷もやはり説明しがたいものに思われていた」そうですから、作者はよほど念入りに「イワンの謎」を読者に記憶させたかったのでしょう。


2016年5月22日日曜日

52

作者は今まで、作中の「わたし」を介して、「イワン」の帰郷の理由については「謎」であると強調してきました。

しかしここで、突然あっさりとその訳を書いています。

それは「あとになってやっとわかったことだが、」という前置きを付けての説明です。

その訳は「イワンが帰ってきたのは、ある意味では長兄ドミートリイの頼みと用件によるものだった。」と。

これは、省略されて書かれていませんが、「わかった」のは「わたし」ですね。

少し前に、その同じ「わたし」はそれを「その後永いこと、ほとんど終始、理解しえぬ問題でありつづけた」と書かれてあり、その「わたし」が、その少し先の文章では「あとになってやっとわかった」と言うのですから不思議ですね。

普通なら、こんな書き方をしないで、前の文章を書きなおした方が自然な流れになると思いますが、後からそのことの正当性を補足しようと無理をしているようにもみえます。

作者は書きなおすのが嫌いだったのでしょうか、それとも書きなおせない理由があったのでしょうか、または意図的なものでしょうか。

それにしても「あとになって」とはいつでしょう?

いえいえ、そんなことよりも「長兄ドミートリイの頼みと用件」とはなんでしょう?

その前に「ある意味では」と付け加えられているのはどういうことでしょう?

私にとって謎は広がるばかりです。


2016年5月21日土曜日

51

まわりの誰もが不思議に思った「フョードル」と「イワン」の蜜月です。

しかし、考えてみれば「フョードル」にとっては、ひどい仕打ちをした息子ではありますが、お金をせびる目的でやってきたのではないことがわかって、ほっとしたのでしょう。
彼はお金しか頭にないのですから。

では、「イワン」にとってはどうなんでしょう。
普通に考えれば、どんな事情があろうとも一つ屋根の下に暮らすのも嫌なことでしょう。
「イワン」がどんな考えで同居できるのか、興味深いのですが、それも「謎」です。

ここで作者は、この「謎」が不合理ではないと読者に思わせるかのような描写を加えます。

1「時には」「フョードル」はいやがらせのような極端なわがままを言うことがあったこと
2「時には」「フョードル」が「イワン」にほとんど従服するようにさえなったこと
3「時には」「フョードル」の品行さえ良くなったこと


つまり「イワン」が「フョードル」に「傍目にもわかるほどの感化」を及ぼしたということですが、「時には」の3連発でリアリティを演出しています。


2016年5月20日金曜日

50

ここで再び「ピョートル・アレクサンドロウィチ・ミウーソフ」の登場です。
彼は、「フョードル」の最初の妻の従兄で、召使小屋にいた「ドミートリイ」を引き取ってモスクワの従姉にあずけ、すぐにパリに行った人です。
それから、修道院に訴訟も起こしていましたね。

その彼がパリからこの町に「たまたまこのころ」戻ってきていて、自分の領地で暮らしていました。
彼も「イワン」の論文のことを知っていたのでしょう、当然「大いに関心」をそそられました。
そして、「イワン」と「近づき」になり、「時にはいささか内心の苦痛をおぼえながら知識を競い合ったこともあるほど」でした。

リベラリストの「ピョートル・アレクサンドロウィチ・ミウーソフ」と「イワン」はお互いにいい話相手だったのでしょう。
「時にはいささか内心の苦痛をおぼえながら」と書かれていますので、「ピョートル・アレクサンドロウィチ・ミウーソフ」は自分の政治的活動のことなども話し、過去のことをいろいろと思い出していたのでしょう。

しかし、このふたりの間には距離感があります。
ここで、しつこいようですが再び「わたし」が出てきます。

「ピョートル・アレクサンドロウィチ・ミウーソフ」が「わたしら」に語ったというのです。

その内容は、「イワン」のプライドのことや彼がこの町に来たことに対する疑問、また、彼がお金目当てで「フョードル」のところにいるのではないことや、その「フョードル」が「イワン」と仲よくなったことの驚きなどです。

こんなことを「わたしら」に話したということは、「イワン」とは心が通っていませんし、友達になろうともしていませんね。
むしろ、こちら側からあちらを覗いたという感じでみんなに言いふらしています。

そして彼が「わたしら」に話したとなっていますので、みんなで聞く環境にあったということは、後ででてくる「都」という飲み屋の常連のひとりかもしれないと思いました。


2016年5月19日木曜日

49

あの「イワン」があの「フョードル」のもとに現れたことは、おおきな「謎」なのです。

「イワン」は
1 学識がある
2 プライドが高い
3 みたところ慎重そうな青年

「フョードル」は
1 乱脈な家庭のひどい父親である
2 「イワン」を黙殺して、知らないし覚えてもいない
3 息子が頼んでも絶対お金をくれないほどケチだ
4 「イワン」と「アレクセイ」も乗りこんできてお金をせびるといつも心配している

こんな「イワン」がこんな「フョードル」のところにやってきて、うまくいくはずはないでしょう。

しかし、ひと月、ふた月と一緒に暮らし、「どちらもこれ以上はとても望めぬくらい仲よくやっている」のです。

ここでまた「わたし」が顔を出してきて、この意外な成り行きについて「わたしばかりではなく、他の多くの人たちも、とりわけおどろかされた」そうです。

実際の世の中は、こんな理解不能で矛盾していて説明できないようなことがたくさんありますね、むしろ、そんなことばかりで成り立っていると思うこともあるくらいです。

ですから、この小説のこの部分もなおさら現実味を帯びてくるのでしょう。

もちろん、小説の作者が人物と状況をここまで描きこんでいるからそうなるのだと思います。


2016年5月18日水曜日

48

ここでまた「わたし」が出てきてしゃべります。

「なぜあのときイワンがこの町にやってきたのか」と疑問に思い、その「宿命的な帰郷」は「わたし」にとって、「その後永いこと、ほとんど終始、理解しえぬ問題でありつづけた」と。

「わたし」は「イワン」がこの町にやってきたとき、「何かほとんど不安に近いものをおぼえながら」内心ずうっと疑問に思っていたということを今でも忘れはしないというのです。

「わたしは当時でさえすでに」と書かれていますので、この町でこれからなにか大変なことがおこるかもしれないという予感があったのでしょう。

しかし、「イワン」の帰郷については、作者は確かその理由を後で書いていると思いますので、ここでは作者と「わたし」は大きく分離していて「わたし」はこの町に住む誰かのように読めます。

そして「あのとき」は言うのは、冒頭で書かれている13年前の「フョードル」の悲劇的な事件のことです。



2016年5月17日火曜日

47

ここで再び「わたし」が出てきます。
そして、なぜ「イワン」の論文の内容のことにまで立ち入って書いたのかを説明します。
それは、この町の郊外にある有名な修道院にこの論文が広まり、「わたし」は「めんくらった」からなのです。
それと、その筆者がこの町の出身者で《ほかならぬあのフョードル》の息子であることにも驚かされました。

この町の修道院とは、長男「ドミートリイ」を引き取ったヨーロッパ通の「ピョートル・アレクサンドロウィチ・ミウーソフ」が漁業権とか伐採権とかで訴訟を起こしていたあの修道院です。

当時(1864年)、裁判制度改革にともなって宗教裁判の改革も検討されていて大いに議論を呼んだそうですので、この修道院も「イワン」の論文に興味を持ったのでしょう。

小説の舞台になるこの町の見取り図があれば、これからの展開がわかりやすくなると思うのですが、もうどなたかが作ってネットに公開されているかもしれませんね。

それからあまり関係はないのですが、この町の名前は、ずっと後の方で書かれています。

「スコトプリゴーニエフスク」という長ったらしい名前です。


そんな時に、この長ったらしい名前の町に、突然、「教会裁判をめぐる問題」の作者であって《ほかならぬあのフョードル》の息子である「イワン」が姿をあらわしたのです。


2016年5月16日月曜日

46

新聞に掲載された「イワン」の「教会裁判をめぐる問題」とは何でしょうか?

ここで作者は具体的な内容について一切触れずに、「肝心なのはその論調と、目をみはるばかりの結論の意外性だった」と、その外形だけをなぞるように書いています。

彼は一応、「教会裁判をめぐる問題」に関するさまざまな意見を分析し、個人的見解も表明したとされています。

しかし、「教会派」の大多数の賛同を得たと同時に「市民権派」や「無神論者」たちからも拍手を送られたそうです。

ということは、どっちつかずの論文だったということでしょうか。

作者は、「結局、ごく一部の明敏な人たちが、この論文全体を不遜な悪ふざけと嘲笑にすぎぬと結論を下したのだった」と書いています。

「不遜な悪ふざけと嘲笑」とは、わかりにくい表現です。

これは、上から目線で人を小馬鹿にしている、ということでしょうか、しかし、それでしたら、対立する両派からの賛同は得られないと思うのですが、そうではなくて、巧妙な意図によってそのようにさせているのでしょうか。

作者は、今まで「イワン」の能力を高く評価して書いているように思っていましたが、ここでは、才気はあるがイマイチだみたいな感じで、急に突き放しているようです。

でも、実際そうでしょうか?

ずっと先の方なのですが、「大尋問官」という章があって、そこで「イワン」の考えがながながと表明されますので、内容についてはまだお預けです。

しかし、ここでは、この程度の人間の意見として、読み流してもいいものでしょうか。


さらにずっとずっと先の方で、「イワンは謎」という言葉がよく出てくるのですが、ここでもすでに「イワン」は十分「謎」です。


2016年5月15日日曜日

45

すこしだけ有名になった「イワン」は、大学を卒業後、ある論文を大新聞に発表する機会を得ました。

それが、広範な範囲の読者層から関心をよせられ、多くの人に知られるようになりました。

その論文の内容はあとでこの小説に絡んできます。

彼は理系でしたので、まったく分野が違うのですが、当時いたるところで持ち上がっていた「教会裁判」をめぐる問題について書かれたものでした。

「教会裁判」とは、「1864年の裁判制度改革にともない、教会裁判の改革も検討され、大きな議論をよんだ」と訳者が括弧書きで書いています。


2016年5月14日土曜日

44

「イワン」は新聞社の編集部と顔をつなぎ、その後も関係を絶たぬようにして、大学生活の後半には専門テーマの本に関して才気溢れる書評を発表しはじめました。

当時のロシアの大学は何年制だったのでしょう、彼の2千ルーブルはもう引き降ろせるようになっていたのではないでしょうか。
当初はあれほど待ち望んだはずのお金でしたが、彼はまだ手を付けなったようです。
いや、前に「大学の最初の二年間」は自分で生活費を稼ぎながら、と書かれていましたので、少しは生活の足しにしたのかもしれません。
すぐ後に書かれているのですが、このお金は主に彼が大学卒業後に外国に行く資金として使われます。

今ほどではないでしょうが、マスコミに少し名前が売れ出すとその影響は大きく、彼は文学者たちにも知られるようになりました。


2016年5月13日金曜日

43

「イワン」はさっそく、一回20カペイカで家庭教師をはじめました。
ここまでは、ふつうなのですが、ここから彼の独創的な行動がはじまります。

その前に亀山さんによれば、1ルーブル=100コペイカ(カペイカ)=1000円ですので、家庭教師料は1回2百円ということになりますね。


さて「イワン」は、巷の出来事を《目撃者》という署名で10行記事にして、いろんな新聞社の編集局をこまめに回って売り込みました。
この記事はおもしろくて、また、興味深く書かれていましたので、すぐに採用されるようになりました。

「この一事たけでも」彼は、都会のおおくの貧乏学生たちとは知性でも実行力でも違っていました。
普通の学生でしたら、フランス語の翻訳とか清書とかという定型の仕事を得るために出版関係を朝から晩まで回って消耗しています。

誰もが思いつかない新しいことを考える知性と、それを実現するために行動することは、なかなか両立しないことで、いつの時代でも難しいことですが、これをきっかけに「イワン」は自分の人生を切り開いていきます。




2016年5月12日木曜日

42

「イワン」は財産があるにもかかわらず、苦学生となったわけです。

そして、そんな状態であっても、父親に頼ろうとすらしませんでした。

父親に手紙を書くこともしなかったそうですが、これは借金を作って父親のところに乗り込んできた長男の「ドミートリイ」と対照的です。

「イワン」が父親に頼ろうとしなかったことについては、作者は「ここで指摘しておかなければならないのは、」とわざわざ前置きをしてそう書いています。

ちょっと、横道に逸れるのですが、作者は今までもこのような前置きというか、読者に直接話しかけるような言葉をよく使っています。
たとえば、「これは注目すべきである」とか「記憶しておく必要がある」とか「ここで特徴的な一面として記しておきたいのだが」とか「この点をわたしは読者に最初から心にとめておいていただきたいと思う」とかです。
そのように作者から言われると読んでいる者は、一瞬ドキリとするのですが、あらためてその意味するとこが今後の展開の中でどのように絡んでくるのかなどと想像をめぐらせます。

元に戻りますが、なぜ「イワン」は父親に頼ろうとしなかったのかは、自分のプライドからか、父に対する軽蔑からか、今までのことを考えて援助など得られないと冷静に判断したのか、はっきり書かれていませんがそのようなことなのでしょう。

とにかく、大学生「イワン」は働くのです。


2016年5月11日水曜日

41

ここで作者は次のような、見方によっては滑稽でもある文章を続けています。

「しかし、青年が中学を終えて大学に入ったときには、ポレノフも、天才的な教育家も、すでにこの世にいなかった」と。

あれほど熱意をもって教育に取り組んでいた人たちでしたが、自然の法則にはさからうことはできず、肝心な時には、二人そろってこの世から消え去ってしまいました。

つわものどもが夢のあと、ではないのですが、人生の悲哀のようなものを感じます。

彼らの高尚な教育理念の実験台にされたと言えば言い過ぎでしょうが、ひとり残されたのは「イワン」でした。

そして「ヴォロホフ将軍の未亡人」が「イワン」に残してくれた千ルーブルの遺言金は利子が付いて、2千ルーブルに増えており、「エフィム・ペトローウィチ・ポレノフ」の善意によって、手付かずでそっくりそのまま残っていました。

ここまではよかったのですが。

しかし、「エフィム・ペトローウィチ・ポレノフ」の手続きの不手際に加えて、当時のロシアではよくあったらしいですが、役所の形式主義と仕事の遅さのために、お金を引き出すことができませんでした。

そのため、「イワン」は大学に入って2年間、自分で生活費を稼ぎながら、勉学するという、たいへん辛い目にあったのでした。



2016年5月10日火曜日

40

「イワン」は目立つほど勉強ができましたので、「エフィム・ペトローウィチ・ポレノフ」は彼に英才教育を受けさせたのです。

ここで、作者は「確かなことは知らないが」と前置きをしてはおりますが、「イワン」が入った全寮制の中学校というのは、当時有名だった、ある教育家の学校でした。

そして、その教育家は「エフィム・ペトローウィチ・ポレノフ」の少年時代からの親友でした。

そして、これは、「イワン」自身がのちに話したこととされていますが、この教育家は「天才的な才能をもつ子供は天才的な教育家のもとで教育されるべきだという思想」の持ち主で、それに賛同した「エフィム・ペトローウィチ・ポレノフ」の《善事に対する情熱》からそうされたのだそうです。

作者のこのあたりの設定の仕方は、つい読み流してしまいそうですが、たいへんな心配りがあり、すばらしいと思いました。

私は、「エフィム・ペトローウィチ・ポレノフ」が「アレクセイ」を家に置いて「イワン」を外に出したということについて、ちょっと・・・と、かすかにやもやしたものを感じていたのですが、そんな小さな違和感もこの説明的ともいえる展開で消えてしまい、逆に現実味をおびて次の展開を期待させてくれます。

作者は、ここ以外でも、場所はすぐに指摘できないのですが、このようなさりげない心配りの文章を多用しています。
ちなみにここでの心配りとは以下のようなことです。

1.教育家の存在の現実感を出すために、そして、軽い揶揄が含まれているようにも思われる「確かなことは知らないが」と、わざわざ加えた前置きのこと。

2.貴族会長「エフィム・ペトローウィチ・ポレノフ」の少年時からの親友ということで想像される裕福な環境にある教育家の人柄と、ふたりのめぐまれてはいるがある意味で閉鎖的な関係のこと。

3.教育家の思想を家を出た当の「イワン」に語らせたことによって、「イワン」自身の置かれた環境に対する自分の内部での納得の仕方と自己の微妙な葛藤の有り様についてを暗示させているところ。


2016年5月9日月曜日

39

「エフィム・ペトローウィチ・ポレノフ」は、「まれに見るほど高潔で慈悲深い」人であり、二人の青年が「養育」と「教育」に対して、一生恩義を感じてしかるべき人とされています。

特に弟の「アレクセイ」はかわいがられ、永い間彼の家庭で育てられました。

兄の「イワン」は、年長なだけあって、10歳ころになると、自分たちが「他人の家庭」で情にすがって生きていることや実の父親が恥ずかしいほどのひどい人物であることを意識するようになって、内気ということではありませんが、だんだんと、「なにかこう気むずかしい、自分の殻に閉じこもったような少年」になりました。
そして、「ほとんど幼年時代」から、これも作者は人から聞いた話と書いていますが、勉強が人並みはずれてできるようになり、13歳ごろには「エフィム・ペトローウィチ・ポレノフ」の家を出て、モスクワのある中学校の全寮制学校に入りました。

しかし、作者は二人の少年時代と青年時代はまた後で、と書いています。

二人の子供にそれぞれ与えられた遺言金の千ルーブルは、彼らが成人するまで、そのまま貯金されましたので、利子がついて、それぞれ2千ルーブルに増えていました。
また、子供たちの教育にかかる費用は、それぞれ千ルーブルを上まわっていましたが、遺言金には手をつけずに全面的に彼が面倒をみました。

つまり、彼が良心的に子供たちを育てたということです。


2016年5月8日日曜日

38

そして「ヴォロホフ将軍の未亡人」亡き後のことです。

作中に彼女の財産を引き継ぐ親族の存在のことは書かれていないので、たぶんいなかったのだと思いますが、そうすると「イワン」と「アレクセイ」への2千ルーブルの贈与以外の彼女の財産はどうなるのでしょう、それは私も気になっていました。
当時の法律関係がどうなっているのかはわかりませんが、ここで筆頭相続人という人が登場します。
同じ県に住む貴族会長をしている篤実な人「エフィム・ペトローウィチ・ポレノフ」です。
彼がどういう関係の人であるか、また何を相続したのか、あるいはしなかったのかは書かれていません。

しかし、彼は二人の子供たちの養育費のことについて「フョードル」と手紙で相談しています。
子供たちに彼女が残した2千ルーブルは「教育費」でしたので、「養育費」については、財産のある実の父親が支払うのは当然だと思いますが、以前に彼女が彼のもとから子供たちを引き取った際に、養育に関する正式な同意書を交わしており、その内容が関係するのでしょうが、詳細はわかりません。

ともかく、この手紙で相談するうちに「エフィム・ペトローウィチ・ポレノフ」は「たちどころに見ぬいた」そうです。
何をでしょうか?
「フョードル」の人間性です。
「フョードル」は「養育費」を露骨に断りはしないのですが、肝心なところで、「むやみに感傷にふけったりさえして、引きのばしにかかるだけだった」そうです。

ですから、そんな人間のことは、さっさと見限ったのでしょう。


2016年5月7日土曜日

37

大立ち回りで子供たちを連れ帰った「ヴォロホフ将軍の未亡人」は、何年後かはっきり書かれていませんが、「その後間もなく」この世を去りました。

そして、「わたしは」と作中に再び「わたし」が顔を出し、「ヴォロホフ将軍の未亡人」の遺言状のことが書かれています。

「わたし」は、自分でそのあくの強すぎる表現で書かれた遺言状を読んだわけではなく、人から聞いたというのです。

遺言状には、二人の子供たちにそれぞれ千ルーブルずつ与えること、これは二人の教育費にあてること、全額を二人のために使うこと、二人が成人に達するまで間に合わせること、もし奇特な人がいれば財布の紐をゆるめることは当人の随意にということが書かれていたということですから、よくわかりませんが、一応良心的な心配りがなされたのではないでしょうか。

ここでまたお金の話が出てきました。

遺言ではひとり千ルーブルですので、百万円ですね。


このお金は利子が付いて2千ルーブルに増えましたので、2百万円になったのです。


2016年5月6日金曜日

36

この出来事は普通に考えると、「ヴォロホフ将軍の未亡人」に暴力を振るわれた「フョードル」にとって、屈辱的なことだと思いますが、彼はすべてを損得勘定で判断します。

「この問題全体を検討したあげく」この出来事は結局のところ、自分にとっては結構なことだと気付いたのです。

彼は子供たちに何の愛着もないのですから、厄介払いできてよかったとでも思ったのでしょう。

その後、老婦人側が子供たちの養育に関する正式な同意書を作成した際にも、「フョードル」は彼女の言うがまま、一箇所も訂正しなかったとのことです。

そして、例の頬びんたのことは、自分から町じゅうに触れて歩いたそうです。

ここでも、前の妻に逃げられた時と同じように、自分の不幸を面白おかしく脚色して笑い飛ばしていたのでしょう。

たぶん彼の中に常にもうひとりの彼がいて、狭い人間世界であくせくする自分を、どこか遠くから冷めた視線で眺めているのでしょう、ここまでは、よくあることですが、彼の場合は、ここから行動に移してその関係性を引っ掻き回すわけですから不運も悲劇も吹っ飛んでしまいますね。

ここまでみてきた「フョードル」の性格について一言でいえば、とんでもないやつ、と言えると思いますが、なかなか一筋縄でいかないところがあり、その行動にはある種の複雑性を背景にした一貫性のようなものがあるように思います。


2016年5月5日木曜日

35

《わたしのソフィヤ》が亡くなって3ヶ月後に「ヴォロホフ将軍の未亡人」が行動を起こします。

まるまる8年ぶりで、憎き「フョードル」と面会する場面です。

「町ですごしたのは全部でせいぜい三十分かそこらだったのに、多くのことをやってのけた」のですが、この表現は次に続く内容そのものを端的に表していて小気味がいいです。

「ヴォロホフ将軍の未亡人」がその家を訪ねたのは夕刻のことでした。

酔っ払った「フョードル」が出てきましたがその時、「何の説明もなしにいきなり、したたか音のする頬びんたを二発くらわせ、前髪をつかんで三度下に引きおろし」ました。

そして、「一言も付け加えずに」さっさと召使小屋に行きます。

そこで、「子供たちが行水も使わされず、汚い下着でいることを一目で見ぬくと、夫人はすぐに当のグリゴーリイにまで頬びんたを見舞い」ました。

「グリゴーリイ」は忠実な奴隷らしく、この理不尽な暴力に口答えひとつしませんでした。

「ヴォロホフ将軍の未亡人」は二人の子供を「膝掛けにくるんで、馬車に乗せ、自分の町に連れ戻」りました。

読んでいてイメージがみずみずしく思い浮かんでくるようなすばらしい展開です。

夕刻から酔っ払っていた「フョードル」はともかくとして、忠僕「グリゴーリイ」にまで頬びんたというのは、とんだ迷惑ですが、彼は去りゆく「ヴォロホフ将軍の未亡人」の馬車を見送りながら最敬礼をして「お子さま方に代って、神さまがきっと償いをなさってくださいますでしょう」と言います。

この言葉は、この小説の今後を暗示するような重要な言葉と思われますが、ここで作者は「ヴォロホフ将軍の未亡人」に次のようなとんでもない言葉を言わせます。

「とにかくお前は抜作(ぬけさく)だよ!」

「抜作(ぬけさく)」?、私は、この言葉はお見事だと拍手を送りたいくらいですが、「抜作」という言葉は死語になっているようで若者にはわからないようです。
ちなみに「抜作」をネットの辞書で調べると「間抜けな人をあざけっていう語」というのが、一番多く出てくるのですが、少し違和感を感じます。
少なくともこの小説中の使用では、少し突き放した中に暖かみがあるように思います。

ついでに、この台詞は他の人の翻訳ではどうなっているか調べてみました。

米川正夫訳は「なんといったってお前は阿呆だよ!」
中山省三郎訳は「それにしてもやはりおまえが間抜けなのだよ!」
亀山郁夫訳は「それにしても、あんたはどがつくほどの阿呆だよ!」(「ど」の上に強調の黒丸付き)


私にとっては、原卓也訳の「とにかくお前は抜作だよ!」が一番しっくりきます。

「ヴォロホフ将軍の未亡人」はそう言って、馬車で立ち去りながら「グリゴーリイ」に「夫人は一喝くらわせた」のです。

ただただかわいそうなのは、忠僕「グリゴーリイ」です。

この捨てぜりふは、長年ずっと、愛憎並存する心持ちでこの家の様子を監視していた「ヴォロホフ将軍の未亡人」ならではの言葉でしょう。

たぶん、主人の好き勝手な行動を身近で知っている「グリゴーリイ」に対するイライラ感の爆発です。

この辺のくだりは、かみ合わない言葉のやりとりがおかしくもあり、反対にそれだから強力な現実感を感じます。


2016年5月4日水曜日

34

母「ソフィヤ・イワーノヴナ」の死後、二人の息子「イワン」と「アレクセイ」は従僕「グリゴーリイ」が面倒をみました。

先の妻がいなくなった際の長男「ドミートリイ」の時と同じです。

今回も父親である「フョードル」は二人の子供の存在を忘れてしまうのです。

この存在自体を忘れるということは、親として非情なことで、モノとして捨て去るということです。
また、存在を忘れられるということは、人間として死の宣告を受けたと同然のことです。

「ドミートリイ」は3歳の時から1年間、「イワン」は5~6歳の時から、「アレクセイ」は2~3歳の時から3ヶ月間「グリゴーリイ」が面倒をみたことになります。

ここでふたたび、「ヴォロホフ将軍の未亡人」が登場します。

「ソフィヤ・イワーノヴナ」の「恩人であり、養育者だった、わがままな老将軍夫人」です。

彼女は、「ソフィヤ・イワーノヴナ」が「フョードル」と結婚した時に、「二人を呪った」ほどでしたので、その執念深さがここで発揮されます。

彼女は「ソフィヤ・イワーノヴナ」がいなくなってから8年間ずっと「自分の受けた侮辱」を忘れることができず、《わたしのソフィヤ》がどのような生活をしているかについて「きわめて正確な情報をひそかに入手しており」、彼女が病気であることやら「フョードル」の破廉恥な行動などすべて把握していました。

そして、その「取り巻き連中」に「こうなるのが当たり前さ。恩知らずの罰を神さまがお下しになったんだよ」と口にしたそうです。

ここで老将軍夫人が「きわめて正確な情報をひそかに入手しており」ということが深刻でもあり、ある意味で滑稽でさえありますね。

彼女は密偵でも放っていたのでしょうか、そんなことは現実的ではありませんので、たとえば近所に知り合いがいて、定期的に情報を手紙で郵送するようにお金を払ってお願いしていたとかのほうが本当っぽいですね。


しかし8年間もずっと、相手にしられぬように、そっと覗きこむような、そんな一見して非生産的で趣味的なことをしていたというのが考えられませんが、人間の本性とはこういうことかもしれませんね。


2016年5月3日火曜日

33

「ソフィヤ・イワーノヴナ」が結婚して1年後に「イワン」が生まれました。

それから3年後に「アレクセイ」が生まれました。

そして「アレクセイ」が「数えで四つ」の時に「ソフィヤ・イワーノヴナ」は亡くなりました。

ここでいきなり「数え」の年齢が出てきましたが、これは、出生時点で1歳、1月1日を迎えるごとに1歳ずつ歳をとる年齢の数え方ですので、「アレクセイ」が満年齢で2歳か3歳のときに、「ソフィヤ・イワーノヴナ」が亡くなったことになります。

彼女の死の理由はここでは述べれられていませんが、「アレクセイ」はふしぎなことに、一生、夢の中の出来事のようにではありますが母親を覚えていたそうです。


幼少時に記憶については、人によって全く違いますが、3歳のころの記憶があるという人は、ごくわずかとは思いますがいるにはいるようです。


2016年5月2日月曜日

32

「ソフィヤ・イワーノヴナ」は「ごく幼いころからおどおどしどおしだった」と書かれています。

これは他人の家に引き取られ、強力な個性の継母に育てられたという環境の影響もあって仕方のないことかもしれませんが、彼女自身の生来の性格の方もあると思います。

彼女は結婚後、「癲狂病み(てんきょうやみ)」という「下層階級の農村の婦人なぞの間でいちばんよく見受ける、女性特有の一種の神経症とも言うべき病気」にかかりました。

「癲狂病み」とは聞きなれない言葉ですが、どんな病気でしょうか。

訳注では、「女性に多い強度のヒステリー発作で、発作の間じゅう病人は絶叫しつづける」と書かれています。

普段は素直でやさしく、清純で、清楚な容姿で、すばらしい美貌の持ち主である女性が、突然意識を失って絶叫しつづけるのですから、おそろしい病気です。

ドストエフスキーは、「癲狂病み」のことを「女性特有の一種の神経症」と書いていますが、男である自分自身もしばしば「てんかん」の発作におそわれて苦しんでいます。

この「てんかん」の発作と「癲狂病み」の症状はよく似ているのですが、同じ病気なのでしょうか。

「てんかん」と言えば最近では、車を運転中に「てんかん」の発作で意識を失い暴走する事故が多発して社会問題となっていますが、この場合の「てんかん」というのは、どういう病気でしょうか、調べてみると、 原因は様々で、脳腫瘍や頭部外傷後遺症などの明らかな原因がある場合は「症候性てんかん」、原因不明の場合は「特発性てんかん」と呼ばれるそうです。

ここで、「ソフィヤ・イワーノヴナ」の「癲狂病み」というのは、勝手に判断すれば、「特発性てんかん」に近いのではないかと思われますが、きっかけは、ずっと押さえつけられた精神的なものが、不本意な結婚生活のために増大し、行き場を失って爆発したのではないかと推測できます。


そして、これには、ロシア的と言われる歴史的風土的なものも関係しているのかもしれませんので、この「癲狂病み」には、重要な要素がたくさん含まれているような気がします。