2016年10月31日月曜日

214

「ミウーソフ」は度はずれな自尊心と威厳たっぷりな態度で黙っていましたが、人をみくだすような鷹揚な微笑が口もとに浮かんでいました。

この一連の会話の一部始終を見守っていた「アリョーシャ」は、はげしい胸の鼓動を感じ、それは彼を根底から動揺させていました。

「アリョーシャ」は何かのはずみに「ラキーチン」をちらりと見やったのですが、彼はずっと戸口の脇の席に身じろぎもせずに立ち、目を伏せていましたが、注意深く耳をすまし、目をこらしていました。

しかし、「アリョーシャ」は、「ラキーチン」の生気を帯びた頬の赤みで、彼も自分に劣らぬほど興奮しているらしいことを察しました。

「アリョーシャ」は、なぜ「ラキーチン」が興奮しているのかを知っていました。


これはどういうことかよくわかりませんが、「アリョーシャ」はこの神学生と親しくて、彼の思想までわかっていたと前に書かれてありましたから彼にはわかるのでしょう。


2016年10月30日日曜日

213

「変な話だ、まったく変な話ですな!」と「ミウーソフ」が、かっとなってというわけではなく、何か憤りを胸に秘めているかのように言いました。

「ゾシマ長老」の話は自由主義者で文化的市民としての「ミウーソフ」の主義主張に全く反するものだったのでしょう。

ここで、「かっとなってというわけではなく、何か憤りを胸に秘めているかのように」と言う表現を使っていますが、この場における「ミウーソフ」の複雑な心理をよく表しており、これこそ文学的表現だと思います。

また、いつもは叫ぶ「ミウーソフ」がここでは、叫んでいません。

「何がそんなに変だと思われるのですか?」と「イォシフ神父」が用心深くだずねました。

ここでの「用心深く」という何気なく読み飛ばされそうな表現も「イォシフ神父」の心中が察せられるようなすぐれた文学的表現です。

「実際の話、これはいったい何てことです?」と、「ミウーソフ」は突然堰を切ったように叫びました。

ここで、著者は「ミウーソフ」に叫ばせています。

「ミウーソフ」は続けます。

「地上の国家を排して、教会が国家の位にあがるなんて!それじゃウルトラモンタニズムどころか、超ウルトラモンタニズムじゃないですか!そんなことはグレゴリウス七世(訳注 ローマ教皇。ローマ教皇のみが正当で、普遍的な教会の主であり、彼のみが新しい法令を制定する権能を有すると説き、教皇が教会と世界の無条件の主であると唱えた)だって考えなかったでしょうよ!」と。

グレゴリウス七世について少しだけ調べました。

グレゴリウス七世は、ローマ教皇。本名はイルデブランド。グレゴリウス改革といわれる一連の教会改革で成果をあげ、教皇権の向上に寄与。叙任権闘争における神聖ローマ皇帝ハインリヒ4世との争いでも知られる。カトリック教会の聖人であり、記念日は5月25日。ハインリヒ4世の争いは有名で「カノッサの屈辱」といわれ、1077年1月25日から3日間に及んで雪が降る中、カノッサ城門にて裸足のまま断食と祈りを続け、教皇による破門の解除を願い、教皇から赦しを願ったことを指す。

「ミウーソフ」の発言に対し「パイーシイ神父」が「あなたはまるきり正反対に解釈なさっておられますね!」ときびしく言いました。


そして、教会が国家になるのではなくて、そんなことはローマとその夢であり、それは悪魔の第三の誘惑だ、そうではなくて反対に国家が教会になって、教会の高さにまでのぼって全地上の教会となるのだ、これはウルトラモンタニズムやローマやあなたの解釈にも全く反することで、「地上における正教の崇高な使命にほかならないのですからね。この星は東方からさしのぼるのです」と。

2016年10月29日土曜日

212

長かった「ゾシマ長老」の話も終盤です。

今のところキリスト教の社会自体はまだ態勢がととのっておらず、わずか七人の義人の上に立っているにすぎない。しかし、彼らの力は衰えてはおらず「まだほとんど異教的な結合体に近い社会から全世界を統一する単一の教会へ完全に変貌させようという期待を揺るぎなくいだきつづけているのです。」そして、それがもし永劫の未来のことであってもそうなってほしい。「なぜならこれは実現することに定められておるのですからの、アーメン、アーメン!それに、その時期や期限などで心を乱すことはありませぬ。けだし時期や期限の秘密は、神の叡智の中に、神の予見と愛の中に秘められておるのですからの。およそ人間の計算ではまだきわめて遠くにあるはずのものも、神の予定では、ことによると、すでに実現の直前にあって、もう戸口まできているかもしれないのです。そうあってほしいものです、アーメン、アーメン!」

「アーメン!アーメン!」と「パイーシイ神父」が敬虔にいかめしく追唱しました。

これで「ゾシマ長老」の話は終わりましたが、「七人の義人」というのは、はっきりとはわかりませんでしたが、「七大天使」と言われる人のことなのでしょうか。


この最後の話の部分では、国家という言葉が使われず、社会という言葉になっています。


2016年10月28日金曜日

211

「ゾシマ長老」の長い話は続きます。

外国の犯罪者はめったに後悔しないそうだ。理由は現代の教育が、不当に迫害する勢力に対する犯行であると教えているから。社会は圧倒的な力で機械的にそういった人間を隔離し、(少なくともヨーロッパの人たちは、自分でそう語っていますよ)そのような追放を憎しみの目で見送る。そして、自分たちの兄弟であるその人間の将来の運命に対して完全な無関心と忘却とによって追放している。このようなことが教会の同情なしに行われている。なぜなら、あちらでは教会なぞはもはやなくなっており、寺男と壮麗な建物だけが残っている。ずっと以前から、教会という低級な種から国家という高級な種への進化を志していて、ゆくゆくは国家の中に消滅し去ろうとしている。少なくともルーテル派の国々ではそのように見受けられる。ローマでは千年の間、教会に代って国家があがめられている。「だからこそ犯罪者自身も教会の一員としての自覚を持っておらず、隔離されると絶望におちいってしまう」。かりに社会へ戻っても、強い恨みを抱いていることが多く、社会のほうで疎外するような形になってしまう。「こんなことがどういう結果に終るか、ご自分で判断できるでしょう」。多くの場合、わが国でも同じような気がするにちがいない。しかし、わが国にはまだ教会が存在する。「たとえ心の中だけにせよ、教会の裁判も立派に存在し、保たれておって、これが現在は実際的なものでなくても、やはり将来のために、心の中だけにせよ生きつづけており、しかも犯罪者自身にも心の本能によって疑いもなく認められている」。先ほど、この席で言われたことは正しいことで、つまりもし全社会が一つの教会になって、教会の裁判が実現して、力を十二分に発揮するようになれば、現在では考えられぬほど犯罪者の矯正に影響を与えるばかりか、おそらく実際に犯罪そのものも、信じられぬくらいの割合に減少するにちがいない。教会は未来の犯罪者や未来の犯罪を今日とは違うふうに理解するので、追放された者の復帰や悪事をもくろむ者への警告、堕落した者の更生などもできるはずだ、そして、「もっとも」と。


ここで、長老は微笑を洩らしました。


2016年10月27日木曜日

210

「ゾシマ長老」の話の続きです。

教会は愛情豊かなやさしい母親のように、実際的な懲罰を避けています。罪人はすでに国家の裁判によって手ひどく罰せられており、だれか憐れんでやる者が必要なのです。「教会が懲罰を避けるいちばんの主な理由は、教会の裁判こそが真実を内に蔵する唯一のもの」であるので、他のいかなる裁判とも本質的、精神的に違うのです。教会は、たとえ一時的であっても妥協はしませんし、闇取引きもしません、と。

ということは、教会の裁判の中には懲罰という言葉はないということですね。つまり、キリストの教えの中には精神的な破門はあっても、肉体に痛みを与えると考え方はないということですね。

犬や猫などの動物ならば痛みを与えることである程度は行動を規制することができるのは事実ですが、それと同じように人間の一面である動物的な部分に直接刺激を与えて矯正するという考え方はすでに否定されています。


程度にもよるかもしれませんが、懲罰で与えられる肉体的な痛みというのは、通常は一時的なもので過ぎ去りますが(しかし、肉体的な痛みが精神的なものに与えることもあるので一概には言えませんが)、精神的な痛みというのは、これも程度にもよりますが、一生背負うことが多いと思います。


2016年10月26日水曜日

209

「ゾシマ長老」の話は続きます。

今、市民社会の法律が犯罪者を排斥し隔離しているのですが、もしも教会も同じように、そういう人間を排斥したら、その犯罪者はいったいどうなることでしょう、「ああ、恐ろしいことです!もし、教会までが、国法の懲罰にひきつづいてそのたびに破門の罰を下すとしたら、いったいどうなります?これ以上の絶望はありますまい、少なくともロシアの犯罪者にとって。というのは、ロシアの犯罪者はまだ信仰を持っていますからの。」と。

この「ゾシマ長老」の問いかけは、少し前に「イワン」が「あなたにひとつ伺いますがね、破門された人間はそうなったらどこへ行けばいいんです?・・・」と「ミウーソフ」に聞いたこととまったく同じですね。

「ゾシマ長老」も同じ問いを発し、「イワン」の言葉とは少し違う言葉を使って「・・・これ以上の絶望はありますまい・・・」と言っています。

そして、「イワン」の話の内容をそのまま引き継いだかのように、さらに次のように言葉を続けます。

かりに社会からも教会からも見放されると、ことによると恐ろしい事態が生ずるにちがいありません、おそらく、犯罪者の絶望的な心の中で、信仰の喪失が生ずるに違いありません。「そうしたら、どうなります?」と。

「そうしたら、どうなります?」と聞く「ゾシマ長老」の意図するところがわかりません。

今を生きる私たちのほとんどの者がまさに、そういう状態におかれており、そうではない状態を想像することもできないくらいに無自覚になっていますので、この「ゾシマ長老」の問いに答えることはむずかしいのではないでしょうか。

しかし、犯罪者の良心ということを考えると、信仰をもっていなくてもそれは当然に存在するわけで、その基盤が宗教ではないということは、なんかふらふらとさまよう良心であり、それが不安や謂れのない恐怖の原因にもなるのでしょうが、反対にその良心が自分で培ってきた信念によって確固たるものになっている場合もあるのではないでしょうか。


しかし、その信念が信仰に打ち勝つほど強いものであるかどうかはわかりませんし、また、その信念を作り上げた共同的な基盤の強度がどれほどのものなのかなど疑問はたくさんありますが。


2016年10月25日火曜日

208

「ミウーソフ」は好奇心をまざまざと示して「それはどういうことです、お教えいただけますか?」と、「ゾシマ長老」にたずねました。

つまり、「・・・おのれの良心に存する本当の懲罰のこと」を聞いたのでしょう。

「つまり、こういうことです」と長老は話はじめました。

ここからは、長老の長い話です。

昔は、笞刑まであったのですが、こうした懲罰とかはだれをも更生させません。肝心な点は、ほとんどの犯罪者に恐怖心を起させないので、年を追うごとに犯罪の数は増えてゆくばかりです。この事実にはあなたも同意せねばなりません。つまり、そんなわけで社会はまったく守られていないのです。なぜならば、かりに有害な分子を機械的に隔離して、目に入らない遠いところへ追放したとしても、すぐそのあとへ別の犯罪者が、ことによると一度に二人も現れてくるからです。「かりに、今のような時代にさえ社会を守り、当の犯罪者をも更生させて、別の人間に生れ変わらせるものが何かしらあるとすれば、それはやはりただ一つ、おのれの良心の自覚の内にあらわれるキリストの掟にほかなりませぬ。キリスト社会、すなわち教会の息子として、おのれの罪を自覚してこそはじめて、その人間は社会そのものに対する、つまり教会に対する罪も自覚するのです。」というわけで、犯罪者が罪の自覚をしうるのも国家に対してではなく、教会に対してなのです。「だから、もし裁判が教会という社会に属しているとしたら、そこではだれを破門からよび戻して、ふたたび一員に加えてよいか、わかっているはずです。」ところが、現在、教会は実質的な裁判を持っていませんから、精神的な非難の可能性を有しているだけで、犯罪者に対する実質的な処罰からはみずから遠ざかっています。犯罪者を破門することもなく、父親としての訓戒をして、見すてずにいるにすぎません、そればかりではなく、犯罪者に対してキリスト教会としての交わりを保つように努め、教会の勤行や聖餐式にも出席させてやり、施し物も与えているという具合で、罪人というよりむしろ捕虜のような扱いをしています、と。

まだ、長老の発言の途中ですが、このあたりで何やらわからなくなってきました。

教会が裁判をおこなえば、「そこではだれを破門からよび戻して、ふたたび一員に加えてよいか、わかっているはずです。」ということですが、教会は、破門という判決を下した人間の心の中までわかっているということでしょうか。

そして、今は教会は裁判から遠ざかっているので、すべての犯罪者に対して破門という判決は行わず、見守ってあげているとうことなのでしょうか。


たとえば、異教徒は破門でしょうし、残忍な凶悪犯は破門されるかどうかわかりませんが、いずれにせよ教会がキリストの掟に従った厳密な裁判を行えば、ある意味で非常にきびしいものになるのではないでしょうか。



2016年10月24日月曜日

207

「ミウーソフ」は「イワン」の発言をさえぎって、「つまり、それはどういうことですか?」と言いました。

そして、なにやら夢物語で、なんだかつかみどころがなくて、とても理解できない、破門というのはどういう破門です?「あなたは冗談を言っているにすぎんのでしょうが、イワン・フョードロウィチ」と。

ここで、「ゾシマ長老」がふいに口をはさみます。

「しかし、実際には現在でもまったく同じですの」

みんなは、いっせいに長老の方を向きました。

「なぜなら、かりに今キリスト教の教会がないとしたら、犯罪者の悪業への歯止めがまったくなくなって、ひいては悪業に対する懲罰までないにひとしくなるでしょうからの。懲罰と言っても、今この方が言われたとおり、たいていの場合ただ心を苛立たせるにすぎぬ、機械的な懲罰のことではなしに、唯一の効果的な、ただ一つ威嚇と鎮静の働きをもつ、おのれの良心の自覚に存する本当の懲罰のことですぞ」

この長老の発言の中で、「実際には現在でもまったく同じ」という意味がよくわかりません。


たぶん、「イワン」の理想とするキリスト教国家が成立していない現在でも、教会は犯罪者の良心に訴えかけてその役割を果たしていると言っているのですが、「まったく同じ」とは、どういうことでしょうか。教会の役割という視点からだけで見るとそうなるのでしょうが。


2016年10月23日日曜日

206

「イワン」は、かりにすべてが教会になれば、つまり、教会的社会裁判が行われればということですね、そうすれば教会は犯罪者や不従順な人間を破門するだろうが、その場合でも首をはねたりはしないはずです、と言います。

そして、「あなたにひとつ伺いますがね、破門された人間はそうなったらどこへ行けばいいんです?だって、そうなれば破門された人は、現在のように人間社会からだけではなく、キリストからも離れ去らなければならないんですよ」その人間は世間だけでなく、キリストの教会に対しても敵対することになります、今でも厳密な意味ではそうですが、そんなことは文章で書かれているわけではないのだから、現代の犯罪者の良心は自分自身と闇取引きをして『俺は泥棒こそしたが、べつに教会に逆らったわけじゃないし、キリストの敵でもないんだ』なんてことを一人残らず思っています、しかし、教会が国家になったら、この地上のすべての教会を否定しなければならなくなり、『どいつもこいつも間違ってやがる。みんな本筋からはずれちまったんだ。偽の教会ばかりだ。人殺しで盗人のこの俺さまだけが正しいキリストの教会なんだ』なんてことは、簡単にいえることではなくて、「膨大な条件や、そうざらには存在しない環境を必要としますからね」ところで、その反面、教会自体の犯罪観を考えると「現在の、ほとんど異教的とさえ言える考え方を改めて、現に社会を守るために行われているような、病菌に冒された箇所を機械的に切断してしまうようなやり方から、今度はもう完全に嘘偽りではなく、人間再生の思想、人間の復活と救済という思想に変わってゆくべきじゃないでしょうかね?」と。

つまり「イワン」の言いたいことは、今は国家と教会という二つが人間の心を支配しているので、どっちかがダメだとどっちかにつくことができるのだが、一本にすれば、すっきりすると。


そして、国家は社会を守るために人間を切り捨てるが、教会は再生と復活と救済の思想だから教会一本に統一すべきだ、これは、人間の良心の帰属の問題で、「イワン」の言わんとするところはそういうことのように思えます。


2016年10月22日土曜日

205

「イワン」の話と「パイーシイ神父」の要約を聞いて「ミウーソフ」は「これでいくらかはほっとしましたよ」と、また足を組みかえて苦笑しました。

そして、自分が理解したかぎりでは、この話は、「限りなく遠い、キリスト教再来の時における、何かの理想の実現ということ」で、それなら「戦争、外交官、銀行などといったいっさいのものの消滅という、まことに結構なユートピア的空想」であって、「どこか社会主義に似たところさえありますよ」、そうじゃなければ、これは本気で、たとえば教会が今後、刑事事件を裁いて、笞刑や流刑や死刑までも宣告するなんてことを言っているのかと思いましたよ、と。

「ミウーソフ」がそう言うのも無理はありませんね、話があまりにも極端で現実離れしていますから。

しかし、「イワン」は現代、教会的社会裁判が実行されたら、流刑や死刑はなく、犯罪や犯罪感は疑いもなく変わるはずだと言います。

そして、それは、今すぐ急にというわけではなく、徐々にであって、「それでもかなり早急にね・・・」と、「イワン」はまばたき一つせず、冷静に言いました。


「ミウーソフ」は「イワン」に、本気なんですか?と問いました。


2016年10月21日金曜日

204

「イワン」は自分の論文の概要を説明しました。

すると、「パイーシイ神父」は一語一語を強調しながら「つまり、要約すればこういうことなのです」と言いました。

そして、「十九世紀になって明白すぎるほど明白になってきたある種の理論によりますと、教会はちょうど低級な種が高級なものに進化するように、国家に変質すべきであり、やがては学問や時代精神や文明などに屈して、国家の中で消滅すべきだ、というのです。」そして、そうでなければ、現在ヨーロッパ各地でよく見られるように、国家の中で監視されながら国家の中の一隅を与えられるにすぎず、「しかし、ロシア人の解釈や希望では、低級な種が高級なものに進化するように教会が国家に変質するのではなく、むしろ反対に、国家がいずれは一つの教会になり、それ以外の何者でもなくなることが必要でございますね、アーメン、アーメン!」と。

「パイーシイ神父」のこの発言は、意味がわかりません。

先ほどの「イワン」の説明では、なかった部分が要約されています。

「十九世紀になって明白すぎるほど明白になってきたある種の理論」とは、「唯物論」だと思うのですが、「・・・やがては学問や時代精神や文明などに屈して、国家の中で消滅すべきだ」という部分は、「イワン」の意見ではありません。

前に「イワン」の論文について、どういうものだったかということが書かれていました。

それによると、「肝心なのはその論調と、目をみはるばかりの結論の意外性だった」そして、一応は「教会裁判をめぐる問題」に関するさまざまな意見を分析したとあります。そして、「教会派」の大多数の賛同を得たと同時に「市民権派」や「無神論者」たちからも拍手を送られたと書かれてありました。

このどちらからも、拍手を送られたというのは、彼の論理が矛盾しているからではないでしょうか。

少なくとも「国家」や「宗教」の定義がなく、それぞれ都合よく扱われています。


いずれにせよ、「イワン」の言いたいことは「国家」が「教会」になるべき、つまり「キリスト教国家」になるべきだと言うことだと思いますが、すっきりしません。


2016年10月20日木曜日

203

「イワン」は続けます。

というわけで、将来の目的は、論敵の言葉を借りるなら、「教会が『あらゆる社会的団体』や『宗教的目的のための人々の結合体』として国家の中に一定の地位を求めたりすべきではなく、むしろ反対に、あらゆる地上の国家がゆくゆくは全面的に教会に変るべきであり、それも教会と相容れぬ目的をことごとく排除したあと、教会になるほかないのです。」そして、そのことは、「なんら国家の価値を低めるものでもなければ、大国としての名誉や栄光、支配者の栄誉などを奪うことにもならず、むしろ、異教国家という虚偽の誤まった道から、もっぱら永遠の道へのみ導く真の正しい道に引きもどしてくれる」、ですから、かりに『教会的社会裁判の原理』の著者が、その原理を探求し、その提言が、未完成で罪深い途上にあるわれわれにとっては、必要である一時的なものであるというのなら、その判断は正しい、しかし、この原理の著者が提言し、先ほど「イォシフ神父」が数えあげた原理こそ、不可避的な揺るぎない永遠の原理だと明言するのですから、もはや真っ向から教会に反し、その神聖な揺るぎない永遠の使命に逆らうことになったのです。「これが僕の論文であり、その概要です」と。

『教会的社会裁判の原理』との本の名前は、ここになって出てきましたが、著者の名前はずっと出てきませんね。

「イワン」は「国家」が「教会」になるべきで、そうなっても「国家」の価値は下がらないというのですが、前と後ろで「国家」を見る視点のすり替えがあるように思いますが。

「イワン」の言っていることは、極端なことで、ここまで言うのなら聖職者になった方がいいのではないかと思います。


論敵の聖職者より、「イワン」の方がずっとキリスト教的というか、突き抜けていて、もし彼のいうようにこの世が全部教会になれば、キリスト教も国家も共に雲散霧消してしまうような気がします、それともキリスト教だけが残るのでしょうか、そして、その世界がどのようなものになるのか想像できません。


2016年10月19日水曜日

202

「イワン」はきわめて冷静に、注意深くいんぎんに話をきき終えると、ふたたび長老に向かって、話をつづけました。

「僕の論文の思想はこういうことにつきるのです。」と切り出します。

そして続けます、キリスト教の最初の三世紀間はこの地上に教会としてあらわれました、次にローマという異教国家が名目上はキリスト教国家になったのですが、ローマ自体が異教の文明や叡知の遺産の基盤の上に立っており、多くの面で異教国家的でありつづけました、ところが、キリスト教会は国家に編入されはしましたが、自己の基盤を何一つ譲るわけにはいかないし、また、教会の目的は主が決めて指示されたもので、その目的とは全世界を、つまり古代の異教国家全体を教会に変えてしまうという目的でした、と。

今、あらためて、キリスト教の目的が全世界をキリスト教にするためであったと聞くと恐ろしさを感じますが、これを自由主義とか共産主義とかに言い換えると何となく納得できるような気がします。


キリスト教が当時の最高の理念的世界であったなら、それに向かって進むことは当然のことでしょう。


2016年10月18日火曜日

201

「まったく聖職者にはあるまじき言葉の遊戯ですよ!」と「パイーシイ神父」がこらえきれずにまた口をはさみました。

そして、「イワン」の方に顔を向けて「あなたが反論なさった問題の本を読んだのですが『教会はこの世のものではない王国である』と聖職者の言葉には呆れかえりました、もしそうだと、教会はこの地上にないことになる、聖書の中で『この世のものならぬ』という言葉は、そんな意味で使われているのではない、こういう言葉の遊戯は許しがたい、われらの主イエス・キリストはまさしくこの地上に教会を設けるためにおいでになった、天の王国は天にあるのだが、そこへ入るには、この地上に設けられ確立だれた教会を経てゆくほかない、だから、この意味での世俗的な駄洒落は許しがたい、けしからん、教会は王国であり、統治すべく定められている、究極においてはこの地上全体の王国となるはずで、これはもう神の約束ですから、と。

聖書の中の『この世のものならぬ』という言葉はどこに出てくるのかわかりませんでしたが、「この世のものならぬ神様」という表現はあるようです。

いずれにせよ、「パイーシイ神父」は怒っていますね。

特に、現に今ある実際の「教会」の存在がおとしめられているとして憤慨しているようです。


彼は自分の興奮に気づいたのでしょう、ふいに口をつぐみました。


2016年10月17日月曜日

200

これから「イワン」が話はじめますが、内容がちょっと難解なので、なるべく簡単に説明しようと思います。超訳です。

「国家」と「教会」は本来別物で、いっしょにはなりえないが、実際にはいっしょになる状態が永久的に続くのだ、という問題意識を立てた。だから、「裁判」だからと言っても本質的には「国家」と「教会」との妥協などありえないはずだ。自分が反駁した聖職者は「教会」は「国家」の中で厳密な一定の地位を占めているということです。しかし、自分は反対に「教会」が「国家」を内包すべきと思います。かりに現在は何らかの理由で不可能であっても本質的には、これがキリスト教社会の今後の発達の直接的な目的になるはずだ、と。

まだ、わかったようなわからないような気がしますが、「まったくの
正論です!」と、寡黙な博学の司祭修道士「パイーシイ神父」が神経質そうな毅然とした口調で言いました。

そして、「ミウーソフ」は、「まぎれもないウルトラモンタニズム(訳注 アルプスの「山の向こう側」に存在するローマ法王の至上権をあらわす言葉。教会が国家に従属することに反対し、ローマ・カトリック教会の権威を集注化しようとする傾向を言う)ですな!」と苛立たしげに足を組みかえて叫びました。

この「ウルトラモンタニズム」は、「Wikipedia」では「キリスト教の歴史上、17,18世紀フランスやドイツにおけるカトリック教会内の教会政治上の論争において、ローマ教皇の首位性を主張した立場。しばしば「教皇至上権主義」「教皇至上主義」と意訳される。転じて、教皇が政治上も絶対的権威を有するという近代の主張もこの語で表される」そして「ウルトラモンタニズムを直訳すると「山の向こう主義」。フランスから見てローマはアルプスを隔てた向こう側であることによる」と説明されていました。

だからでしょう、「イォシフ神父」は「いいえ、ロシアにはアルプスなんぞございません!」と絶叫し、長老をかえりみて、話をつづけました。

この「イォシフ神父」の話も難しいので超訳です。


まず、心に留めておいてほしいことがあります。この方、つまり「イワン」は、その聖職者が言うところの三つの《根本的かつ本質的な》命題に反論しており、第一に『いかなる社会的団体も、そのメンバーの市民的・政治的権利を支配するような権力を所有することはできないし、また所有すべきでない』第二に『刑法上および民法上の権力は教会に存すべきではないし、またそれは宗教上の施設であり宗教上的目的のための人々の結合体である教会の本質と相容れぬものである』第三は、『教会はこの世のものではない王国である・・・』と言うことです。つまり、この聖職者の言いたいのは、宗教はちっちゃくなっていろということでしょう。


2016年10月16日日曜日

199

図書係の司祭修道士「イォシフ」は「イワン」をさし示しながら「この方のたいそう興味深い論文について話しているところでございます」と長老をかえりみて言った。

そして、「イワン」の論文はいろいろと新説を引き出しており、思想そのものは毒にも薬にもなると思うが、「教会的社会裁判とその権限の拡大範囲という問題について」先ごろ同じ問題で本を出したある聖職者に、雑誌の論文で反駁なさいましたのです、と。

「客たちの間で共通の会話がはずんで」いたというのはこの話題だったのですね。

この「イワン」の「教会裁判」については、前に書かれていました。

「教会裁判」とは、1864年の裁判制度改革にともない、教会裁判の改革も検討され、大きな議論をよんだのでした。

「イワン」の論文で「教会裁判をめぐる問題」に関するさまざまな意見を分析し、個人的見解を表明しましたが、これは「教会派」の大多数の賛同を得たと同時に「市民権派」や「無神論者」たちからも拍手を送られたと、ありましたね。

司祭修道士「イォシフ」が「毒にも薬」と言ったのはこのことかもしれません。

「ゾシマ長老」は、食い入るように鋭い眼差しで「イワン」を見つめながら、自分は残念ながら、あなたの論文は拝読していないが、話は聞いている、と答えました。

司祭修道士「イォシフ」は、「教会的社会裁判の問題で、この方は、国家からの教会の分離を全面的に否定しておられるようなのです」と言います。

長老は「それはおもしろい、しかし、どういう意味でです?」と「イワン」にだずねました。

「イワン」はここでとうとう長老に答えることになりました。


しかし、「前夜アリョーシャがおそれていたような、いんぎん無礼な態度ではなく、こまかい心遣いのうかがわれる、謙虚な控え目な態度で、どうやらいささかの下心もない」ようでした。


2016年10月15日土曜日

198

「フョードル」はずっと「ミウーソフ」に、あれやこれやに対する仕返しをしてやろうと思っていましたので、今このチャンスを逃したくありませんでした。

やがてついにこらえられなくなりました。

隣に座っている「ミウーソフ」の肩に顔をよせ、小さな声でからかいました。

なぜ、あんたはあの『やさしく接吻しぬ』のあとで帰らないで、こんな不作法な集まりに残ることに同意したんでしょうな?それは、自分が卑しめ侮辱されたと感じたから、名誉挽回のために知恵をひけらかすつもりなんですよ、そうするまでは帰りそうもありませんな、と。

ここで言う『やさしく接吻しぬ』というのは、前に会話で出てきた『殉教者列伝』の中に自分の首に接吻したという嘘の話のことですが。

「ミウーソフ」は、とんでもない、すぐ帰る、と言いましたが、「フョードル」は、「いやいや、あんたが帰るのは、だれよりもあとでしょうな!」ともう一度、嫌味を言いましたが、それは「ゾシマ長老」の帰室とほとんど同時でした。

この二人がまた言い争いになる前でよかったですね。

「ゾシマ長老」の入室で議論は一瞬だけ静まりました。

長老は、また先ほどの席に腰をおろし、つづきを愛想よくうながすように一同を見わたしました。

しかし、「アリョーシャ」は、長老の表情のほとんどすべてを知りつくしていましたので、今や長老がおそろしく疲れきり、やっと自分に打ち克とうとしているのがはっきりわかりました。

長老は、最近では体力の衰弱からしばしば失神を起こすことがありました。

その失神の直前と同じような青白さが今や顔にひろがり、唇も血の気が失せていました。

しかし、長老は明らかにこの会合を続けたい様子でした。

「アリョーシャ」は、長老に何か自分だけの目的があるように見えました。

何の目的だろう?と「アリョーシャ」は長老を見守っていました。


実際それは、何の目的でしょう、この後につづく「イワン」との会話でしょうか、それともまだ姿をあらわさぬ「ドミートリイ」の出現を待つことでしょうか。


2016年10月14日金曜日

197

五 アーメン、アーメン

「ゾシマ長老」が庵室をあけていたのは、25分くらいでしたが、当事者たちにとっては、なんと価値ある時間だったでしょう。

時計はすでに12時半を過ぎていましたが、肝心の「ドミートリイ」はまだ姿をあらわしていませんでした。

この会合は約束どおり正午からはじまりましたから、30分以上の遅刻です。

長老がふたたび庵室に入った時、みんな「ドミートリイ」のことなど忘れたかのような感じで、何か共通の話題で話がはずんでいました。

会話に加わっているのは、まず第一に「イワン」と二人の司祭修道士でしたが、「ミウーソフ」もたいそう熱心そうに話の仲間に入っていたらしいのですが、またしても運に恵まれず、明らかに粗略に扱われて、ろくに返事もしてもらえなかったので、せっかくのこの新しい雰囲気も胸につもった苛立ちをつのらせるだけでした。

「ミウーソフ」はこれまでにも「イワン」といくらか知識を競い合ったことがあり、相手のぞんざいな態度を冷静に我慢していられなかったからです。

彼は内心、自分はヨーロッパで進歩的といわれるあらゆるものの頂点に立ってきたのに、このごろの若い世代はわれわれを決定的に無視していると思いました。

「ミウーソフ」が我慢できないイワンの「ぞんざいな態度」とはどういう態度でしょう。

「ぞんざい」とは、⑴いいかげんに物事をするさま。投げやり。粗略。⑵ 言動が乱暴で礼を失しているさま。不作法。とありますが、この中では、「言動が乱暴で礼を失しているさま」でしょう。

しかし、「イワン」の言葉が乱暴であるというのは、違うように思いますので、ただ礼を失しているということでしょう。

これは、「ミウーソフ」の発言を単に尊重していないという意味かもしれませんね。

そこで「フョードル」の登場です。

彼は、さきほど、おとなしく座って黙っていると自分から約束しました。

確かに彼は先ほど、「・・・さて、それじゃ、これで黙ります、今後すっと口をつぐみますよ。椅子に座って、沈黙しますから・・・」と自分から言っていましたね。

しかし世の中、そんなことをいう人にかぎって、黙っていた試しはありません。

もちろん「フョードル」もそうです。


彼は本当にしばらくの間、黙っていましたが、嘲るような薄笑いをうかべて隣の「ミウーソフ」を見て、彼の苛立ちぶりを楽しんでいるようでした。



2016年10月13日木曜日

196

作者は、この14歳の女の子の微妙な心理を描写します。

「アリョーシャ」をどうしてからかって恥かしがらせているのかね?と「ゾシマ長老」に聞かれた「リーズ」はふいに真っ赤になり、目をきらりと光らせ、おそろしく真面目な顔になりました。

そして、恨めしげな訴えをこめて、突然神経質な早口でまくしたてはじめました。

「だったら、その人はどうして何もかも忘れてしまったのですか?」と、そして、自分がまだ小さかったころは抱っこしてくれたり、いっしょに遊んでくれたりしたのに、長老さまは勉強を教えに来てくてれいたことをご存じないでしょう?二年前に別れるときにも、僕は決して忘れない、永遠の友達だって言っていたのに、今度はあたしをこわがったりするのですもの、あたしが食べちゃうとでもいうのかしら?どうしてそばへ来てくれようとしないのかしら、話をしてくれないのかしら、家へも来てくれないのでしょう?それは本当に長老さまが出してくれないのでしょうか?でも、あたしたちは、その人がどこへでも外出しているのをちゃんと知っています。あたしが呼ぶのは不作法だから、その人が自分から思いだしてくれてもいいはずです、いいえ、だめね、その人は修行中ですものね!長老さま、どうしてそんな裾の長い袈裟をその人に着せたりしたのですか、走ったらころんでしまうわ、と。

そして、彼女は突然こらえきれなくなって、片手で顔を覆い、長い神経質な、声もたてぬ笑いに全身をふるわせながら、抑えのきかぬ様子で笑いくずれました。

「リーズ」は自分の思っていることをすべて表に出したようですね。

「アリョーシャ」は、家庭教師として二年前にこの家に来ていたのですね。

「ゾシマ長老」は、微笑をうかべて彼女の言葉をきき終ると、やさしく祝福を与えました。

彼女は、長老の手に接吻しようとして、ふいにその手を自分の目に押しあて、泣きだしました。

そして、「あたしを怒らないでください、あたしはばかなんです、何の値打ちもない人間です・・・もしかしたら、アリョーシャがこんなおかしな女の子のところへ来たがらないのだって、むりもないんですわ。」と。


「ゾシマ長老」は「必ず行かせますよ」と断を下しました。


2016年10月12日水曜日

195

「ゾシマ長老」は、申しわけないのですが待っている人がいるので、いずれまた、と言って立ち去ろうとしました。

待っている人というのは、庵室の一行のことです。

「ホフラコワ夫人」は感動で泣いていましたが、ふいに全身をふるわせて「リーズ」に祝福を与えてください、と言いました。

すると、「ゾシマ長老」は、いや、その子はずっとふざけていましたので愛に値しませんよ、どうして「アレクセイ」をからかっていたのです?と、冗談まじりに言いました。

実際に、「リーズ」はこのいたずらにかかりっきりだったのです。

どのようないたずらでしょうか?

彼女は、ずっと以前に「アリョーシャ」に会ったときから、彼が自分を見るとどぎまぎし、見まいと努めているのに気づいていたし、それがたいへんおもしろかったのです。

彼女はまじまじと相手の視線を待ち、捉えようとするのでした。

そうすると「アリョーシャ」は執拗に注がれている眼差しにこらえきれず、抗しきれぬ力に負けて心ならずも彼女に視線を合わせます、それで彼女は勝ち誇ったような微笑をまっすぐ彼の目に送るのでした。

「アリョーシャ」はどぎまぎし、腹立たしく思い、ついにはすっかり顔をそむけて、長老の背後に隠れてしまいましたが、二、三分するとまた、さっきの抗しがたい力に引きずられて、自分を見ているかいないか確かめようとふりかえりました。

「リーズ」は車椅子からほとんど身を乗りださんばかりにして、横から彼の方をのぞきこみ、彼がふり向いてくれるのを一心に待っていました。

そして、彼の視線を捉えると、長老さえこらえきれなくなったほど、大きな声で笑いくずれたのでした。

「リーズ」は少し前も笑いくずれていましたが子供ですね、まだ14歳ですから。


「ゾシマ長老」は「どうしてこの青年をそんなに恥ずかしがらせたりするのです、お茶っぴいさん?」と言います。


2016年10月11日火曜日

194

「ホフラコワ夫人」は、「まあ、恐れ入りました!今この瞬間になってやっとわかりましたわ」と言います、そして続けて、先ほど忘恩には堪えられないと話したときは「あなたのおっしゃったとおり、自分の誠実さに対するお賞めの言葉だけを期待していたのでございます。あなたはあたくしに、自分の本当の心をひそかに教えてくださり、あたくしの心を捉えて、説明してくださったのです!」と。

私はなかなかわからなかったのですが、「ホフラコワ夫人」はたいへん理解力のある人だと思います。

「ゾシマ長老」は「本心からそうおっしゃるのですか?」と夫人の真意を確認してから、そうだとすると、今こそあなたが誠実で心の善良な方だということを信じます、「かりに幸福に行きつけぬとしても、自分が正しい道に立っていることを常に肝に銘じて、それからはずれぬように務めることですな。肝心なのは、嘘を避けることです。いっさいの嘘を、特に自分自身に対する嘘をね。自分の嘘を監視し、毎時毎分それを見つめるようになさい。」、そして、他人にも自分にも嫌悪の気持ちをいだいてはならず、心の中で自分が疎ましく思えるということは、あなたがそれに気づいたということですので、すでに清められているのです、そして、恐れというのは、いっさいの嘘のもたらす結果でしかありませんので、恐れは避けるようになさい、「愛の成就に対するあなた自身の小心さを決して恐れてはなりませんし、それに際しての間違った行為さえ、さほど恐れるにはあたらないのです。何一つあなたを喜ばせるようなことを言えなくて残念ですが、それというのも、実行的な愛は空想の愛にくらべて、こわくなるほど峻烈なものだからですよ。空想の愛は、すぐに叶えられる手軽な功績や、みなにそれを見てもらうことを渇望する。また事実、一命をさえ捧げるという境地にすら達することもあります、ただ、あまり永つづきせず、舞台でやるようになるべく早く成就して、みなに見てもらい、賞めそやしてもらいさえすればいい、というわけですな。ところが、実行的な愛というのは仕事であり、忍耐であり、ある人々にとってはおそらく、まったくの学問でさえあるのです。しかし、あらかじめ申しあげておきますがの、あなたのあらゆる努力にもかかわらず、目的にいっこう近づかぬばかりか、かえって遠ざかってゆくような気がするのを、恐怖の目で見つめるような、そんな瞬間でさえ、ほかならぬそういう瞬間にさえも、あなたはふいに目的を達成し、たえずあなたを愛して始終ひそかに導きつづけてこられた神の奇蹟的な力を、わが身にはっきり見いだせるようになれるのです。」と。

長い引用になりましたが、この部分は、さすがだとか、すばらしいとかいう表現では言い表せないくらいであり、恐ろしさを感じさえします。

ここでも、やはり「フョードル」に繰り返し何度も言ったように、自分自身に対して嘘をつかないように言っています。

「愛の成就」に際しての「間違った行為」というのは、ここでは、夫人が自分の内心の告白の正直さを賞められることを求めたように、相手からの見返りだけを目的にした行為のことを指しており、そんなことは「さほど恐れるにはあたらない」と言い切っています。

そして、「実行的な愛」と「空想的な愛」の比較をして、「実行的な愛は空想の愛にくらべて、こわくなるほど峻烈なもの」と言い、最終的に「神」を見出すところに到達するのですが、その過程で、目的から遠ざかっていると感じたり不安をおぼえることがあったりしても瞬間的に目的に達していることがあると言います。


このことは、ある意味で普遍性を持ち、それゆえに「神」の概念さえ再考すべきものとして曖昧になってくるような気がします。


2016年10月10日月曜日

193

続けて「ゾシマ長老」は言います、あなたは真剣に話してくれましたが、それがもし私に賞めてもらいたいだけのことであったとすると、「実行的な愛の偉業という面では、何物にも到達できない」であろうし、「もしそうだったら、すべてがあなたの空想の中にとどまるだけで、一生が幻のようにちらと過ぎ去ってしまうでしょう。この場合はもちろん、来世のことも忘れはてて、しまいにはなんとなく自分自身に満足してしまうことになるのです」と。

これはなかなかわかりにく表現です。

「ホフラコワ夫人」が「賞めてもらいたい=報酬」だけのことで話したのだとすると、ただ「一生が幻のようにちらと過ぎ去」り、「来世のことも忘れ」て、「なんとなく自分自身に満足」するということですが、これは否定すべきこととして言われていることなのでしょうか。

現代人の価値観からすれば、一生が幻のようで、なんとなく自分で満足できるような生き方ならば、人生において良しとするのではないでしょうか。

地に足のついた生き方をして、これで良かったのだと完全に満足できるような人生というのは、望むべくもありません。

なんとなく自分に満足することすら、困難なのではないでしょうか。

「ゾシマ長老」はここで、神を信じて善を行うものと、神を信じてはいるが善を行わないものとの違いを述べているのだと思います。

そうして前者は、幸福に行き着き、後者はそこそこの幸せで終わるということを語っていると思います。


いずれにせよ、神を信ずるものの内部での話であり、それでは、神を信じておらず善を行うものと、神を信じておらず善も行わないものについては、どうなるのか、「ゾシマ長老」に聞いてみたい気がします。


2016年10月9日日曜日

192

「ゾシマ長老」の会話の中の医者も、「ホフラコワ夫人」も強い人類愛のことを話しましたが、いずれもそれらは実行されたことではなくて、抽象的で観念的なことです。

この医者の場合は人類愛はともかくとして、結局は人を愛せないと言っているのでしょうし、彼も、そして愛の見返りを求めているという「ホフラコワ夫人」も頭の中では、愛さなければならないと思っていても、実際には思うように愛せないというのが共通の悩みなんじゃないかと思います。

「ゾシマ長老」は「ホフラコワ夫人」に、「あなたがそれを嘆いていることで十分なのです。ご自分にできることをなさい。そうすれば報われるのです。あなたはもう、ずいぶん多くのことをやりとげていますよ。なぜってそれほど深く真剣に自覚することができたのですからね!」と。

「ずいぶん多くのことをやりとげている」とは、「ホフラコワ夫人」が病弱の「リーズ」の面倒を一生懸命みていることだと思いますが、そのことが「自分にできる」愛の実行そのものであって、それを行っている夫人は、その報酬として、すでに深い真剣な自覚というものを得ているのですという意味でしょうか。

あなたには、深い自覚ということが、神から与えられている、それは、あなたが愛を実行しているからだ、ということですか。


そうだとすると、会話の中で読み飛ばしてしまいそうなところですが、なかなか理にかなった内容になりますね。


2016年10月8日土曜日

191

「ゾシマ長老」は、だいぶ前の話になるが、「それとそっくり同じこと」を、ある医者が自分に語ってくれたことがありますと言いました。

「それとそっくり同じこと」と言っていますが、別に愛の報酬云々の話ではなく、自分は「人類愛」が強いという共通点だけのことだと思いますが。

彼は続けます、それはもう年配の文句なしに頭のいい人で、あなたと同じくらい率直に話してくれました、もっとも冗談めかしてはいたものの、悲しい冗談でした、その人は言いました、自分は人類を愛しているが、人類全体を愛するようになればなるほど、個々のひとりひとりの個人に対する愛情が薄れていく、自分の空想の中では人類への奉仕という情熱的な計画までたてるようになり、もし突然そういうことが要求されるなら、自分はおそらく本当に人々のために十字架にかけられるにちがいない、しかし、それにもかかわらず、どんな相手とも一つ部屋に二日と暮らすことができないし、それは経験でわかっているのです、だれかが近くにきただけで、その人の個性が自分の自尊心を圧迫し、自由を束縛してしまう、どんな立派な人でも一昼夜で憎むようになりかねない、また、ある人は食卓でいつまでも食べているからという理由で、また別の人は風邪をひいてのべつ洟をかむという理由だけで、自分は憎みかねない、自分は人が自分にちょっと接触するだけで、その人たちの敵になってしまうだろう、しかし、その代り、個々の人を憎めば憎むほど、人類全体に対する自分の愛はますます熱烈になっていくのだとその人は言うのです、と。

なんとなく、この医者の言うことは、実感できませんが、こんなことは本当にあるのでしょうか、人類愛と隣人愛の反比例ということですが、もしこの医者と「ホフラコワ夫人」の共通点をさがすとすると、それは、隣人愛からの逃避からくる愛の空想癖に対する自己批判のようなことではないでしょうか。


何かこのあたりのことはおよくわかりませんが、「ホフラコワ夫人」は、「では、どうしたらよろしいのでしょう?」、「絶望するほかないのですか?」と問います。


2016年10月7日金曜日

190

話しながら自分で自分の話に酔ってしまっているのでしょうか。

「ホフラコワ夫人」は、自分には強い人類愛があると言いながら、例えば自分が人類愛に満ちた看護婦になったとして、そのような生活をずっと続けていくことができるでしょうか、と熱っぽく、ほとんど狂おしいばかりに話を続けます。

そして、それが自分にとって、数ある問題の中でいちばん苦しい問題です、と。

彼女の話は支離滅裂ですね。

論理的ではありません。

情熱にまかせて、思いついたことを興奮して喋っているだけのように聞こえます。

さらに彼女は続けます。

彼女は自問することがよくあると言います。

それは、もし看護婦となった自分に傷口を洗ってもらっている患者が「すぐ感謝を返してよこさず、それどころか反対に、さまざまな気まぐれでお前を悩ませ、お前の人間愛の奉仕など目をくれもしなければ評価もしてくれずに、お前をどなりつけたり、乱暴な要求をしたり、ひどく苦しんで入る人によくありがちの例で、だれか上司に告げ口までしたら、そのときにはどうする?それでもお前の愛はつづくのだろうか、どうだろう?と。

そして、それには自分でもう結論をだしていて、そしてぎくりとしました、「かりにあたくしの《実行的な》人類愛に即座に水をさすものが何かあるとしたら、それはただ一つ、忘恩だけですわ」、つまり一言で言えば、自分は報酬目当ての労働者と同じで、ただちに報酬を、「つまり、あたくしに対する賞賛と、愛に対する愛の報酬を求めるのでございます。そうでなければ、あたくし、だれのことも愛せない女なのです!」と。


ここまで話して、彼女は心の底から自責の発作にかられていましたので、話し終ると、挑戦的な決意の色を示して長老を眺めやりました。


2016年10月6日木曜日

189

「ゾシマ長老」が、「ホフラコワ夫人」に話したのは、実際に身近な人を愛せよ、ということでしたが、彼女は、そうすることはたいへんなことだと言います。

そして、しかし自分は、実は、人類愛がどても強く、とりおり「リーズ」とも別れて看護婦になろうかと空想することがありますと言います、そして、時々、目を閉じて考え空想するのですが、そんな時には抑えきれないほどの力を身内に感じ、どんな傷口も、どんな膿みただれた潰瘍も平気で自分の手で繃帯をかえてあげ、傷口を洗い、苦しんでいる人々の看護婦になってあげられたらと思います、そういう傷口に接吻してもいいとさえ思っているのです、と。

ここまで、聞くと、彼女はたいへん愛に満ち溢れた人で、むしろそのためにかえって何かをしたくて煩悶しているように聞こえます。


「ゾシマ長老」は、あなたがそこまで空想するということは、「それだけで、もう余りあるくらい、立派なことです」、これから先あなたにもしも何かそういう機会があれば、善事を行うでしょうから、と言います。


2016年10月5日水曜日

188

「ゾシマ長老」は「疑いもなく、死ぬほどつらいことです。だが、この場合何一つ証明はできませんが、確信はできますよ」と答えます。

「どうやって?何によってですか?」と「ホフラコワ夫人」は直ちに問い返します。

「ゾシマ長老」は「実行的な愛をつむことによってです」と答えます。

変な日本語訳だと思うのですが、「実行的な愛」とは何でしょう。

これは、本当はいわゆるキリスト教でいう「愛」なのでしょう。

しかし、そう言えば抽象的すぎるので、「マルコによる福音書」の12章31節の「汝自身を愛するように汝の隣人を愛せよ」ということでしょう。

それこそ、ある意味、誰でも実行可能なことですので「実行的な愛」と長老は表現したのでしょう。

そして、「実行的な愛をつむこと」の「つむこと」というのは、そういうことを繰り返し繰り返し反復するという意味がこめられています。

「ゾシマ長老」は続けます、次の言葉は彼が確信をもって言った言葉です、そして難解であり、また重要な言葉だと思います。

「・・・自分の身近な人たちを、あくことなく、行動によって愛するよう努めてごらんなさい。愛をかちうるにつれて、神の存在にも、霊魂の不滅にも確信がもてるようになることでしょう。やがて隣人愛における完全な自己犠牲の境地にまで到達されたら、そのときこそ疑う余地なく信ずるようになり、もはやいかなる懐疑もあなたの心に忍び入ることができなくなるのです。これは経験をへた確かなことです」と。

つまり、実際に隣人愛を実行してみなさい、それを徹底的に行い、完全な自己犠牲の境地まで行けたら、迷いはなくなるということです。


最終的に、来世への確信を得るためとはいえ、迷える羊にとっては、ハードルが高いと思いますが、とりあえずは実現可能なひとつの解決ではあるでしょう。


2016年10月4日火曜日

187

「ホフラコワ夫人」は「ゾシマ長老」が、あなたの悩みの真剣さは十分信じていると言ってくれたことに感謝し、自分がよく目を閉じて思うことがあって、それは「みんなが信じているとしたら、いったいどこからそれは、生じたのか」ということだと言います。

そして、ある人は、それはすべて最初は恐ろしい自然現象に対する恐怖から起ったと説きますが、しかしもしそんなふうに一生信じつづけたとして、いざ死んでしまえば、ふいに何一つなくなり、ある作家のもので読んだように『墓の上には山ごぼうが生い茂るのみ』ということになったら恐ろしいことです、「いったい何によって信仰を取り戻せるでしょうか?」あたくしが来世を信じていたのは、ごく幼いころだけで、何も考えず、ただ機械的に信じていたときだけです、と。

『墓の上には山ごぼうが生い茂るのみ』と書いた作家は誰かと、調べてみましたがわかりませんでした。

しかし、この「ホフラコワ夫人」の発言は、当時の唯物論的な影響を受けているかもしれませんが、そうでなくとも、多くの人が一度は心の中で思ったことがあるかもしれない正直な告白ですね。

「ホフラコワ夫人」は死んだら死に切りということを恐れています。

しかし現代人のほとんどは、死んだら肉体も精神も消滅すると思っています。

そして、そのことを恐れていません。

たしかに、来世があると考えた方が「死」に対する恐怖心は少なくなるでしょう。

死んで何も残らないとすれば、「生」自体、虚しくなるかもしれません。

では、現代人は「死」への恐れはないのでしょうか、そんなことは忙しくて普段考えないから実感がわかないのでしょうか。

しかし、直接的に考えないまでも、人間は生きている以上、「死」について、自分自身で納得する方向に向かって、無意識的な領域において考えつづけているように思うことがあります。

そして、自分では気付かなくとも、その都度、何らかの結論めいたものを出しており、その中に恐れのようなものが含まれていれば、それは不安や齟齬となって形を変えて現れたりするのかもしれません。

「ホフラコワ夫人」は、信じることができなくなった「信仰を取り戻」したいと思って質問をつづけます。


「・・・では、いったいどうすれば、何によって、それを証明できるのでしょう。あたくし、あなたの前にひれ伏して、それをおねがいするために、今こうして参ったのでございます」、今のこの機会を逃したら、一生もう誰も答えてくれる人はいません、「何によって証明し、何によって確信すればよろしいのでしょう?」こうして、ここに立って、あたりを見まわしてみても、みんなこんなことなぞ、気に病んでいないのに、自分だけがそのような悩みに堪えきれないことは不幸なことだ、「死ぬほど!」と。


2016年10月3日月曜日

186

「ホフラコワ夫人」は「疑い」があると、告白しました。

「ゾシマ長老」はそれは「神への疑いですか?」と問い返します。

そうすると「ホフラコワ夫人」は「・・・とんでもない、そんなこと考えてみる勇気もございませんわ。でも、来世ということが謎なのです!そして、だれもこれに答えてくれませんもの!」あなたは、万病を癒してくださる人間の魂の専門家でいらっしゃいます、あたしはあなたに全面的に信じていただけるなんてことは思っていませんが、今、こんなことを話すのは、軽薄な気持からではないことは誓います、「やがてくる来世の生活という考えが、苦しいほどあたくしの心を乱すのでございます、ほんとに恐ろしくなるほど・・・」、そして、その勇気がないので、だれにおすがりすればよいのか、わかりません、ですから、今思いきってあなたに申しあげているのです、ああ困りました、こんなことを話すと今度あたくしのことをどんな女とお考えになりますことでしょう、と彼女は悲しげに手を打ち合わせました。

どうも、彼女の話は要領を得ませんが、これはキリスト教的な死にたいする漠然とした不安ということでしょうか、これは、自分では否定していますが、れっきとした、「神への疑い」ではないでしょうか。

来世などなくて、死ねば死にきりなどという思いが生ずれば、宗教自体に疑問がでてくるでしょう。

「ホフラコワ夫人」の「悩み」は「神への信」という根本的な問題なのではないでしょうか。


長老は、「わたしの考えなど、お案じになることはございません」「あなたの悩みの真剣さは十分信じておりますから」と答えました。


2016年10月2日日曜日

185

「ホフラコワ夫人」は、「ああ、なんというすばらしいお話、なんという大胆な尊いお言葉でしょう」と叫びました。

そして、前回会ったときも、娘の「リーズ」のことばかりが話題になっていたようで、今度は自らの心の内面について、前回言い出せなかったことを話しますと言って、話し出しました。

「それにしても、幸福とは、幸福とはいったいどこにあるのでしょう?いったいだれが、自分は幸福だと言うことができるのでしょう?」

これは、その前に「ゾシマ長老」が「・・・人間は幸福のために創られたのですし・・・」と言ったことを受けた疑問でしょう。

そして、彼女は続けます。

あなたは、今日もう一度会うことを許してくれたほどやさしいのですから、あたくしが、この前、すっかり言えなかったこと、言うのをためらったこと、あたくしがずっと以前から苦しみつづけているいることを全部聞いてください、あたくしは苦しんでいるのです、と、「何か熱っぽい発作的な感情に包まれて、長老の前で両手を組み合せ」ました。

「ゾシマ長老」は、「特に苦しんでおられることは、何です?」と問います。

「ホフラコワ夫人」は、幸福とは何かと聞いたのですが、長老は、この抽象的な話には、直接答えることはせず、彼女が何かに悩んでいることを見てとり、このような問いかけをしたのでしょう。

「あたくしが苦しんでいるのは・・・疑いです・・・」

「神への疑いですか?」